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クロワッサンふたつ食べる金曜日 [日々の暮らしで思うこと]

Friday , 22nd May 2020

今年の正月は正月という感じがせず、2019年13月のような気がした。2月の半ばくらいから2020年かと思い始めるも世の中がおかしくなり、何もかもが嘘のような、本当がどこにあるのかないのか、いつまでも晴れそうにない靄へ潜り込んだままひっそり静かに暮らしている。

火曜日に犬を病院へ連れて行った。生後三か月から診てもらっている医者のほかに、茶犬が2016年末から大学病院で治療を受けていて、火曜日に出かけたのは大学病院。何月何日何時何分と予定が決まっていることがそれだけで苦痛なのだが、犬を連れてクルマで10kmほど出かけねばならず不安と緊張が増す。「大丈夫、何かあれば誰かに助けを求めればいい、最悪泣いたって構わない、きっと誰かが助けてくれる」そう自分を励ますが励ましながら、多分私は誰かに助けてなんて言えぬだろうと確信している。痩せていないのに痩せ我慢、侍でないのに武士は食わねど高楊枝が私の基本的な生き方であり、至らぬとは言え、そうあるよう努めてきた。助けてくれるひとが現れても苦手な雰囲気や風体や思考や口調のひとだったりすると、何をどう困っているのかはおろか、一切口を割らない可能性すらあって我ながら厄介極まりない。
どうにか何事もなく帰宅したので自信を持てばよいのに、たまたまうまくいったとしか思えず、経験を経験として活かせず、生き辛さが少しも減らない。もっと気楽に気儘に優雅に過ごしたい。

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欧米の映画やドラマやニュースで日本であれば義母とか義弟とか血のつながらないとか言うところを法律上の母とか法律上の弟などと言うことがすっきりしていてよいと思う。義理とは何かしらと引っかかるものがあり、自分で使う気持ちになれない。言うとしたら夫の母とか妹の夫と言うだろう。
さて、私には法律上の夫がいて、と言うと多くの夫は法律上の夫であると思われるかもしれぬが、届け出たかどうかに依らず、事実として夫がいると言い切るのは私には少し気が引けて、ここでは同居人と呼んできた。世の妻と呼ばれるひとの果たしているように思うことの殆どをせずに夫と言うのは申し訳なく法律上のと言うのが正確に思う。日常生活で婚姻関係を否定しては差し障りがあるので、ときに平然と夫だ妻だと口にしもしたけれど。

一緒にいると楽しいという愚かで軽はずみな動機により同居して数年を経たある朝、彼の母親から電話があり、何が何でも今日の午前中に入籍せよと厳命された。結婚してもしなくてもと暢気に構えていたが、彼の母親からはいずれ籍は入れるべきと言われていたし、こういうこともあるかと書類の準備はさせられていて、風邪で数日前から熱があったものの、午前中に出そうと思えば出せる状況だ。お告げだか占いだかで決められるのはどうなのと思いつつ、同居人も私も午前中に間に合う具合に支度をする。支度をしながら婚姻関係となることに躊躇いがないか確かめ合い、今後の姓をどうするかじゃんけんをして、私が負けて同居人の姓を名乗ると決める。ほかに妨げとなるものはないように思い、支度が済むとふたりで役所へ直行した。難なく受理され、そいじゃと帰りかけて「奥さん」と呼び止められる。私のことなのか半信半疑で振り向くと手招きされており確かに私を呼んでいた。幾ら思い出そうとしても呼び戻しの用件は思い出せない。あれは戸籍係が一番最初にそう呼んだひとになりたくて常々やっている何かしらの遊びではと思っている。

こうして私は法律上の夫と奥さんと呼ばれる地位を得た。思いのほか悪くない感じで、意図してはいなかったが、何ひとつ欠けていない完璧なものを手に入れたように思った。10歳で父が死に、それから数年のうちに母が家を出て、何かが粉々に砕けて拾い集めようもなく飛び散った虚しさが、然程大きな問題ではなくなった。
例えば彼の父が生まれた国に留まっていたら、彼の伯母の勤務先が違っていたら、私の父が独立しなかったら、私の母が病気にならなかったら、私の友がクルマの前へ飛び出さなかったらと私たちが出会わなかった可能性をあれこれ挙げて、まあ誰でもそんなふうだろうと高を括りはするけれど、これは運命の出会いではと思ってみたりする。

The Smithsが Hand in glove という曲で確か「この愛はほかのものとは違う、だって我々のものだから」というようなことを歌っていて、誰のどういう愛を歌ったのかわからないけれど、同居人と私はどこにでもあるものとは違う私たちだけの愛で結ばれていると思った。思うしかなかった。
私こそが Hand in glove を歌うに相応しいと信じて歌ってきたのだった。

こういう話は概ね退屈で、誰かが幸せと言いふらしたり、贅沢三昧を見せびらかしていたら、馬鹿だなとか早く黙らないかなとか思うものだ。だからお伽話も紆余曲折を語り、おしまいは王子様とお姫様は幸せに暮らしましたとさで済ませるのだろう。
でもね、ひとに歴史ありという言葉もあって、お伽話のようにめでたしめでたしでは片付けられないことがある。めでたしと切り取られた一瞬がどうあろうと、ひとが暮らすというのは雨露霜雪焦心苦慮の繰り返しだったりして、厳しい。それをどう遣り繰りするのか、乗り越えるのか、同居人と私のこれまでやこれからを書いてみたい。数多の失敗や思いつきや考え、犬やひとや音楽や家事やお菓子や得手不得手について書きたい。古巣で再びブログを書いてみようかなと思っている。2020年の今。

町田康さんが講演で幾度か読み手がいてこそ書くのだというようなことを言うのを聞いていて、町田さんくらいになると読者など関係ないのではとか、技術技巧や完成度重視ではとか、雷に打たれて一心不乱に書いているのではとか、あれこれ勝手に思い描いてしまうけれど、私のような読者が含まれるかはさておき、読み手の存在が何かしら影響するらしいというのは生きていてよかったと思えるご褒美だ。プロフェッショナルであれば、名作を著した作家であれば当たり前と受け流すことは出来ない。
私も読んでくれるひとがいるものと信じてブログを書きたい。大切なひとへの手紙のように心を込めたい。

町田さんのサイン会へ通って17年くらいになると思う。数年前のあるとき町田さんから「いつも一緒に来るね」というようなことを言われてとても嬉しかったのだけど、私より喜んだのは同居人で、すごいとか覚えてもらえてるとか何度も言って、暫く騒がしかった。目前の生き物は何かという思いと素直で健気で愛らしいという思いが同時にあった。

Hand in glove に話を戻すと「きっと君とはもう会わないだろう」というような意味のことを幾度か繰り返して終わる。ほかのものとは違う、私たちの愛なのに。悲しいですね。少し前には「傍にいて」とあり「自分の運はわかっている」からの「会わないだろう」。諸行無常ってことか、或いは自分には運がないという絶望的な思いか。
ちょっと思い浮かぶのは、私自身が好ましく思うひとほど遠くへ行ってしまうという思い込みがあって(それは恐らく好きなひとだからこそいなくなられてさみしさが募ることを錯覚しているのだと理屈では考えるのだが思い込みを打ち消せず)誰かを好ましく思うたびなるべくあまり好きにならずにいたいものだと考えがちな思考の道筋、癖。
ひとに限らず音楽や本や映画にしても好きというのは勝手に起こる感覚で、自分で調節出来ればどんな苦しみも無くすことが出来てしまい、置かれた場所で咲きなさいと言われたらそりゃあ咲きますけどって話。好きも嫌いも自分ではどうにもならないところが面白さとも運とも運試しとも言える。

くじ運について言うと何にしてもくじを引くのは同居人の役目である。互いを賞品としたとき彼と私であれば私のほうが貴重上等、つまりは大当たりを引いたのは同居人なので同居人はくじ運がよいという横暴な理屈。同居人は「確かに」などと納得して商店街やデパートやコンビニエンスストアでくじを引く。豪華賞品こそないものの大抵何かしら当ててしまう。同居人がいないからと私が引くとハズレばかりで私にくじ運がないのは間違いない。
けれど自説ながら私が貴重上等というのは全くの出鱈目で、多分私は同居人という大当たりでくじ運を使い終えた。「君より私に価値があるよね」と滅茶苦茶を言われて気を悪くせぬ器の大きさは私にはない。歳を重ねても短気で乱暴で喧嘩の絶えぬ同居人がどうして私には寛容なのか、条件を設けて離婚と言えば何故すんなり従うのか、その辺りの謎は解けていない。解ける日が来るのかも怪しい。

15か月前の夜、気が触れそうな泣き叫びたいのに喉が詰まったような身体が張り裂けそうな息が止まりそうな自分が自分でないような部屋ごと海底に沈んだような、悲しみと苦しみと混乱が大きな塊で押し寄せてどうにもならなくなった。必死に耐えていて、それで楽になるとか助かるだろうといった見込みなしに誰かに現状を伝えたいと思った。助けてと言うのが苦手でありながら。

今とても困っていると知って欲しいと思ったときに頼ったのはFさんである。Fさんの懐の深さをアテにしたのは勿論だが、苦しさをわかってくれるひとに伝えたかった、亭主元気で留守がいいというようなひとでは駄目なのだ。切実に理解されたかった。果たしてFさんのこれ以上ない受け止めを得て、私は少しずつ落ち着きを取り戻すことが出来た。助かった。

パニック発作と鬱は少し耐え難いところにあり、悪化している気がする。気のせいであればと思う。

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昨日出した荷物が届いたらしく、久々に同居人の母と電話で話した。遠吠えする犬は不吉だからと犬を捨てるよう諭され、んーと唸ってから相変わらずで何よりと返答した。

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