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ニロ音階のピョンコ節 [日々の暮らしで思うこと]

Wednesday, 27th May 2020
 
昨朝、同居人の履いていない靴を二足捨てた。履いているものを引き剥がして捨てる訳がなく、捨てるのは履いていない靴に決まりだけれど、あまり履いていない、出番の少ない靴の話だ。それを二足捨てて悲しかった。
家の散らかりようが酷く、片付けたい。右のものを左へ置いていては永遠に片付かぬので無用なものを捨てる。理に敵うよい考えの筈だがなかなか捗らない。ゴミ袋へ入れたり出したり決心に時間がかかる。要らないものをただ捨てることが難しい。

掃除の天才若しくは手慣れたひとが合理的効率的に一から百の順で片付けるとき一週間かかるとして、九百九十や千へ細切れに分け、順番もなく、出来ることをひとつひとつこなし、必ず千をやったなら、二か月三か月或いは数年を要すかもしれないが、思うところへ行くことは出来ると思う。飛行機かのぞみか各駅停車か路線バスか徒歩か匍匐前進か、それだけの違いで、いつかは行きたいところへ着くだろう。

火曜日の茶犬

昨年のバラ祭りで手に入れた苗木が育ち花が咲いた。胸の高鳴るというか弾むというか、知らずに微笑んでしまう喜びがある。バラが咲いたと歌った歌があったけれど、過去の私であれば本質に迫ることが出来ず頭だけの理解で絵空事として歌ったと思う。今はもうバラが咲いたときに起こる感情がしみじみあるので、心の底から嘘偽りなく歌うことが出来る気がする。曲調が私に合わないしバラが何かの比喩だととんだ勘違いなので歌わぬけれど。

玄関脇の薔薇

同居人の育った家ではかつて、彼の祖父が植え育てた、たくさんのバラが美しく咲いていて、敷地内で開いた同居人母の店はローズ美容室と名付けられた。私が訪れる頃には祖父は仏間の写真となっており、バラは一本たりとも生えていなかった。バラの咲かぬローズ美容室の美容院ならではの椅子へ座り、洗った髪を同居人に業務用ドライヤで乾かしてもらったあと、直ぐに母屋へは戻らず、滅菌機の中を覗き込んだり予約のメモを盗み見たり深刻な顔をつくって鏡に映ったり、しなくてよいことをしながら、育った家での暮らしを聞くのは北九州行きという行事に織り込まれた習わし。

祖父が入院したとき、同居人は自転車に乗りひとりで毎日見舞った。ある明け方、同居人の寝床で祖父が「今までありがとう、もう心配いらないよ、さようなら」と同居人へ言って「病院にいなくていいの?」と同居人が聞くと祖父の姿はなく、病院から祖父の死を知らせる電話があったと言う。同居人は彼が祖父をとても好きで案じているのを知っていたから別れの挨拶に来てくれたと信じている。よく聞く話のようだけれど、大切なひとを失うときの苦しみを思えば、ないがしろには出来ないし、信じる通りの不思議があったと思いたい。
じいちゃん子と言っていい同居人から聞くので当然ながら私は好感を持ち、祖父に会えなかったのは残念だ。そういう気持ちが少なからず手伝ってバラの苗木を植えたのだった。

火曜日の白犬

植えたバラが咲いて気付くのは商品としてのバラと植物としてのバラの違い。切り花は商品らしく扱い易さの工夫があって、茎が真っ直ぐに伸び棘が目立たず香りがほのか。苗木も買ったもので、育てやすく改良された商品だろうけれど植えてしまえば植物で、枝は好き勝手に伸びるし棘が戦闘態勢、なのに甘く甘く遠慮なく香る。
ひと鉢増やせればと思ったが、今年、バラ祭りは開かれなかった。今の私に来年のことを思う余裕はない。

週末に蕎麦を食べに行かれればと思ってはいる。
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