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蛇の毒は常に毒であり続ける [日々の暮らしで思うこと]

Tuesday,1st December 2020

24時間心電図の皮膚への貼りつき具合がよくない。厚めのセロファンを揉んであちこち尖らせたものをぐいぐい押しつけられる感じ、火傷の治る過程の皮膚が突っ張って動き難い感じ、やたら大きくてチクチクするTシャツのタグみたいな感じ、がずっとある。早く剥がしたい。着けた時刻は確か11時17分だった。11時には剥がしてよいと言われたけれど、24時間心電図なら24時間頑張りたいという妙な闘志があって、11時17分になるのを待った。集中力がないのに、こういう時にはひとつのことで頭がいっぱいである。待っていた時間がようやく来て、剥がそうとすると粘着力が尋常でなく、皮膚ごと持って行かれそうで、痛くないと言ったら嘘で、何かしらの罰に思う。思い当たる罪は多くある。少し涙ぐみながら剥がし、それで楽になると思えば剥がした痕がヒリヒリ痛んで、儘ならない。

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そんな訳で朔日朝と決めているフィラリア予防薬を犬にあげることが出来なかった。もう昼に近く、夜には茶犬へ強い薬を飲ませるので、明朝あげることにした。更には火曜日は可燃ゴミの日なのだけど、日常のものも、捨て忘れて溜まったものも、何ひとつ捨てることが出来なかった。時々、私ひとりでどれだけやっても片付く日は永遠に来ないのではと思う。冷静に見て、散らかり方がどうかしていて。偉業にしても思いつきのくだらない趣味にしても、諦めては終わりだ。続ければ目指すところへ必ず届くものでなくても、何かしらの可能性は残る。諦めるな続けろ、そう思うけれど、無駄な抵抗のようにも思う。

正午過ぎ、犬の散歩を兼ねて剥がした心電図測定器と行動記録票を医者へ持って行った。受付が開いていたのでそこにいたひとへ手渡す。Pさんがローソンで鬼滅のみかんとかりんごとか言っていたなと思い寄ってみたけど見当たらなかった。だいたい何だよ、鬼滅のみかんって。レッドブルホワイトのお試し券を使おうと思ったけれど、それも無かった。帰り道に農産物直売所があって、カリフラワーがやけに大きくモリモリ零れるかの勢いが美味しそうに見える。買おうかなと犬を待たせて確かめると450円で諦めた。奥にブロッコリーがあるけど、お高いのでしょうと期待せずに見ると、まあまあ立派なサイズが120円だったので買った。ずっしり重くて長い、葉付き大根90円と合わせて210円を現金で払う。

PCのキーボードが駄目になって、修理せず、外付けせず、画面にタッチキーボードを表示させて使っている。駄目になったキーボードのどこかに死んでいないキーがあって、知らぬ間にそれを押していて、次々タブが広告がということがある。気付くとSkypeが起動していることもあって、念のためPCのカメラへガムテープを貼ったほうがよいのか、そんなのはパラノイアの考え方なのか。自分の正気を疑うひとがいたとして、多いのか少ないのか知らないけれど、私は時々、自分が正気でないのではと思う。部屋の散らかり具合を見れば、片付けが下手と言うより気が狂っていると言うべきで、元々は整理整頓を好んでもいたので、どうかしているとしか言いようがない。

七月のあるとき、自分が半年後には生きているつもりでないことに気が付いた。決定事項として、近々死ぬのだった。考えに考えて結論したというのではなく、気付くとそう決まっていて、ああそうなのか決まっているのか、という感じ。犬の世話をしたい、身勝手ではないか、怖い、とも思うけれど、自分の中で決まったことはそうしないと気が済まないところがあり、大抵、制御出来ない。入院した頃の感覚に似ていて危ない。そういうときに亡くなった俳優の話題を見続けることは出来なかった。生きていくのは苦しい、耐えることに何の意味が、やはり死ぬのが正しいと思考がどんどん狭まってしまう。それで、もう、現実と言われるものを出来るだけ遠くへ置いた。

今日一日を生き延びる、それだけ出来れば良しとする。

今日をどうにか生き延びよう、そう思うとき邪魔になるのは自分自身の考えだ。余所のひとがどう思おうと、それをわざわざ伝えて来ない限り、私は知らずにいられる。私が考えることは私に筒抜けで、自分が如何に駄目であるかを思えば、それがそのまま悲しみや傷となる。自分で自分を許さなくては生き延びるのは難しい。

何度か書いたけれど、母には婚約者がいて、父との間に私が生まれるので両親は結婚した。私が生まれてきたのは誤りで、父や母や母の婚約者の生き方を変えたと思う。私の父にならなくても父は自殺しただろうか。そう思う。それらは動かしようのないものとしてある。けれど同時に、私は既に生まれており、動かしようもなく存在していて、打つ手がない。パラレルワールドに私の生まれてこなかった場合というのがあって父や母や母の婚約者が思う通りに生きたり死んだりすることを思い浮かべる。私に出来るのはそれくらい。今から死んでも間に合わない。

頭を覆う雲と涙で溢れそうな胸の中の海が静かになって生きようとする気持ちが出てきたのか、生きようとする気持ちが雲と海をおとなしくさせたのか解らない。先月からの気分の良さはまだ続いている。クルマを買うのはかなり無謀で自棄になっている気がする。パニック発作が起こると生き続ける自信がなくなる。概ね良いほうへ向かいつつ死にたがりの私がまだいる。

カテゴリー分けに"日々の暮らしで思うこと"としては何でもそうに違いなく日々そこへ分けているが、分かれておらず、以前の"愚"と何ら変わらない。犬のこととか同居人のこととか買い物のこととか、分けたら良いのではと思う。思うことが彼方此方へ飛ぶので上手くいくかわからないけど。
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