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化石人骨風林火山 [日々の暮らしで思うこと]

Sunday, 6th December 2020

犬にささみと南瓜とドッグフードの朝ごはんをあげて、洗濯をして、昨日より暖かくて過ごしやすいことなどと思っていると、精神の死んだPさんが何も出来ない何も考えられない蕎麦が食べたいと言ってきて、蕎麦屋へ行った。I have no money.とだけ言って、同行した。食後に散歩せんと犬も連れて、ゴートゥーイート。と、カナ書きしようとして"ごーとx"と入れると予測変換先頭に、ゴートゥーヘル。気が利く。

蕎麦屋の開店一分くらい前に着いて、順番待ちの表に十組目の客として名を書く。私の姓が99%網羅と謳う印鑑売り場にない程度には珍しく、鈴木と書いてもどの鈴木さんかわからないけれど、私の名を書くと私と特定出来てしまう気がして、私の行動を調べるひとはいないと知っていても、名を書くたび少し躊躇う。必ずしも実名でなくてもよいと思いつつ偽名は使わない。今の姓になる前、十代の頃からずっと、そして今の姓になっても長い間、これという目的無しに、嘘発見器でも見分けがつかない自然な感情物腰口調で言えるよう偽の姓名を名乗る練習をしていたけれど、いつの間にかやめた。何かを忘れた失くした諦めたようにも思うし、何かを得た身に付けた更生した気もする。

開店から十分くらいのうちに店内へ案内される。この店は随分前に大晦日は持ち帰り販売のみと決めていて、今月初めから年越し蕎麦の予約を受けている。店先にもそれを知らせる貼り紙があって、Pさんはまだ立場を決めていない私にどうするどうすると言ってうるさい。大晦日は同居人と別の蕎麦屋へ行くのが決まりで、同じことをするかもしれないし、その店も持ち帰り限定営業かもしれない。何も決めていないと言うと、何故か不機嫌で、面倒なので持ち帰り蕎麦を予約することにした。

Pさんは常々、せっかちだから先のことが決まっていないと落ち着かないと言っていて、私は熟考熟慮して物事を決めたいので、どうするどうすると煽られるのは性に合わない。個々で性格に合った方法で決めればよいようなことも、早く決めないとと急かしてくる。蕎麦の予約が出来なかったとして年越し蕎麦が食べられなくなるだけのことで、しかも頼めなくなった私が食べ逃がすに過ぎず、曖昧な考えのまま決める理由がない。けれど、私の思いは概ね否定され続ける。そんな一人前のことを言って、何かと恵んで貰ったり付き添われたりしていて臍が茶を沸かすけど、援助を受けるにはリスク回避の側面もある。Pさんは承認欲求が強いのか、否定されるのが嫌いで、申し出を断るのも否定と受け取る。素直でないとか感謝が足りないと叱られる。また、怒りの感情が爆発的且つ持続的なので出来るだけ怒らせたくない。どうしたら波風が立たぬか、そこが重要になる。PさんはPさんで私を気難しく面倒で厄介と言う。私は私の自由を言うだけであるのに。

それでも蕎麦屋へ行った甲斐はあって、元々美味しい蕎麦屋なのだけど、今まで通ったうちでも上出来の日で、特に蕎麦の出来がよく、粒の目立たぬ繊細な仕上がりに蕎麦の香りと味がしっかりあって、美味しかった。年越し蕎麦の予約伝票を貰い、Pさんの分と私の分をまとめて予約した。受け取りの時間を訊かれて朝一番の枠を頼み、大晦日午前九時の予定が決まる。持ち合わせがと言われたか他の理由だったか忘れたけれど、Pさんが会計出来ない感じのことを言って、私がPayPayで払っておくことになった(せいろ@700+ミニ天丼@700+消費税140計1540円/ひとり)。ご馳走になっていて代金立替とは、複雑な心持ちである。今日は私がと言うべきだろうか言うべきだろうか言うべきだろうかと熟考熟慮。

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駐車場の犬のもとへ。蕎麦屋の周りには草や木の植えられた歩くによい広場のようなものがあるけれど、人気店なので食べ終えたら駐車場を出ないと拙い。2kmほど離れた場所にある無料駐車場へ移り、犬の散歩をする。Pさんが映画館に用事があると言うので映画館へ向かう。陽向はとても暖かく、陽陰は肌寒い。特に見るようなものもなく、ただ歩道を行く。あんなところへスターバックスはあったかと訊かれ、あったようななかったようなと曖昧な返事をすると、なかったよ、近距離に作り過ぎだよと怒ったように言う。それぞれに用途の違う施設があるし、1km2km離れているし、使うひとには便利じゃないと答えたけど、別の場所の広範囲に一店舗だけの例を出してズンズン歩いていく。私の見たところ、Pさんにはいつもシムシティ的な見方をするところがあって、ここはもっと早く開発すべきだったとか、南北の路線がとか、リニアがとか、複線がとか、あれこれ考えがある。へえ、ふうん、そうなんだと聞く。以前、ちょっと見当違いではと思い、そう言ったところ、とても空気が悪くなるということがあって懲りた。と、通りすがりに駅から五分と書かれた駐車場があり、料金設定が抑えられている。駅へ歩くと50キロカロリー消費出来て健康的、その上、駐車料金も節約になるという提案。他に負けそうなところを逆手にした発想だと思うけれど、五分で50キロカロリーというのは少し落ち着いて考えたい話である。

映画館でPさんの用事が済むとまた殺風景な歩道を通り、駐車場へ。帰途、Pさんが隣国のひとたちをあれこれ罵りはじめ、続けて、ここ数年よく見るアジアのどこかから来た感じのひとたちについても酷く言う。ここで波風を気にしては死人も同然なので、どれも賛成しかねる旨伝えると、「ひねは、性善説を信じたいひとだから」と、いつもの返しで一蹴される。「性善説を信じる」ではなく「信じたい」というところから、もう、どういうことか解らない。自分にとって嫌なことを他のひとにしたくないという、ありきたりで単純な話に誤解がある。親がいないから、貧乏だから、女だから、若いから、歳をとったから、病気だから、子がいないから、ああだからこうだからと言われて、なるほどと思うような話になったことがない。私は私でしかなく、勝手に分別して、こう考えるであろう、ああするであろうと決められたくない。他のひとについても同じように、ひとりひとりを見て考えたい。ひとりのひとの言動でその地域、住人、年代、性別、宗教、職業、国、国民、人種諸々を批判したくない。そしてこれはもう、生き方そのものの問題で、説得されて翻ることは殆どない。それでも繰り返し話題にするのは彼女にとっての誤った考え、私の思いを正そうとしているように見えて怖い。同じ親から生まれ、似たような環境で育ち、これだけ考えが違って、何々人云々と一括りに出来るのが不思議だ。困ったことに、私の準備が整い次第、Pさんが拙宅で暮らすことになっている。話し合う余地なく現実を見ろと言われて押し切られた感があり、不安だ。置かれた場所で咲きたくない。火星に帰りたい。

親より裕福にはなれぬ世代と言われ、暮らしには常に厳しさがあった。そんな中、ただの事実として「自分の家というものに住んだことがない」と同居人へ言うと、「ひねちゃんの家を持とう、安心出来る居場所をつくろう」と奮起して今の家を建ててくれた。同居人の両親は祖父の土地へ祖父が建てた家に住んでおり、同居人弟夫婦はその敷地内に双方の親から支援を受けて家を建てた。その下の弟夫婦は仕事の都合で実家から離れた場所で賃貸物件に暮らしている。私の両親は自分の家を持つことはなく、Pさんも同様である。私たちの親と子に限れば、同居人と私だけが、ふたりだけの資金で家を持った。人類に何の影響もせぬけれど、私にはオベリスクに違いなく、風雨や火に崩れ落ちるときまで守りたい気持ちがある。犬と犬と転寝して。
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