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日暮れのサメハダテヅルモヅル [日々の暮らしで思うこと]

Monday, 11th January 2021

未だ、Pさんの家で過ごす。日に一度は帰宅するものの一時的に過ぎず、ホームシックは続く。11月から続いた気分のよさは消えたかのようで、胸とも頭とも身体とも決められぬどこかに涙や悲しみが溜まっていく感じがある。昼過ぎに犬と歩いたように思うものの写真の一枚も撮っておらず曖昧だ。歩数計の数字だけが昼過ぎに動いた裏付けである。今日のことを思い出そうとして、別の日のことを思い出す。

犬と歩いていると、大きな声で「おはよう、おはよう」と聞こえた。声のほうを向くとこちらへ背を向けたひとが無人の部屋へ向かって「いやだ、おはようじゃないわ、こんにちはだわ」と言ったあと、振り向いて私たちに「こんにちは」と声をかけてきた。平野レミを黒髪にしたような見た目の、ひとりで賑やかな感じのひとだ。おはようも私たちに言ったようで、部屋の時計を見てこんにちはと言い直したらしかった。じょうろや移植ごてを手に取ったり置いたり、頻りに動くけれど、実際には何もしていないように見える。軒先に一抱えはある大きな丸い植物のような何かがふたつ吊り下げられていて、エアプランツであれば見たことのない異色なもの、随分立派なものに見えた。エアプランツは世話が少ない植物のように思い、手に入れてはどうかと思うものの、小さなものでも高額な印象がある。少し見栄えがすると更に値は張り、値が張るほどには見栄えせぬ気がして手が出ない。これほど大きなエアプランツがあったのかと「これは何ですか」と確かめるとコキアだった。言われてみれば所々が赤い。抜き取った根を上に吊るしたふたつ、植物のような丸い何かの正体はコキアだった。干してホウキをつくるそうで、コキアというとどこかの丘一面に植えられた景色を思うけれど、ホウキギという名もあって、ホウキの材料になるらしい。ホウキを使うことそのものが少なく、自分で作ってみることなど思いもしなかったけれど、この落ち着きのないひとはそうしたことを思いつくひとでもあるのだった。「これは何ですか」など教本のような質問は、個人的なところへ踏み入り過ぎずに会話が成り立って重宝する。場が持つばかりか、物を知らぬ私には知る機会も得られ、思うより使い道がある。

私自身に成人式へ行きたい気持ちがなかったので、行くことのできない悲しみがわからない。自分では十歳で大人になった気でいて、それから十年して大人と認められても遅い。交友関係の広い人気者であったり、晴れ姿を見てほしい親類縁者でもいれば事情は変わったのか、それでも自治体に祝ってもらわなくてもと思ったか、わからない。私は振袖を買ったり借りたりする経済力がなく、別の余所行きを着てとも思わず、記念写真を撮っていない。無くて困ることは一切ないけれど、面白写真を残す機会を一回逃したとは思う。振袖や余所行きは着られるときに着て、写真を撮れば記念になるかもしれない。それよりほか、何も思いつかない。

写真や映像は忘れたようなことも記録しておいてくれる。食べてしまって、古くなって、捨てて、失くしてなど様々な理由で目の前から消えたもの変化したものの、食べる前の形、新品の見た目、失う前の姿形を見ることができる。ああ、こんなふうだったと思い出したり、こんなことがあったかしらと不思議に思ったりする。撮影してデータで残してよく、写真にしてもよい。拙宅の菓子の缶にあった古い写真の束を繰ると、どう見てもテレビ画面を写したように見える原辰徳の写真があって、原辰徳に思い入れのある身内や知り合いがおらず、何のための写真かわからない。旅行の写真に紛れていたので旅館のテレビを写したのだろうかと想像するけれど正解はわからないままだ。こんな謎を未来に残すのも一興に思う。

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