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こしにとりてつくへりにしと [同居人のこと]

Wednesday, 5th May 2021

セトウツミを見た。友人から誕生日プレゼントにDVDを貰って、体調のよいときに見ようと思い、体調のよかったのが数日前のことで、誕生日から九週間ほど過ぎてやっと見た。どういうひとも様々な事情を抱えて暮らしているらしいことが無駄に誇張せずさらりと描かれていた。どこにでもありそうな暮らしに、打てば響く心地よい会話があった。最適解の応酬に見えた。こういう言葉を交わしてどうにか、ひとは生きていくのかもしれない。機転や話術の巧拙でなく、ひととひととの関わりがもたらす妙を、何かしら糧にして。

プレゼントしてくれたひとはセトウツミを菅田将暉の現在の代表作と言っていて、たしかにそうだと思った。池松壮亮も悪くなく、このふたりでなかったら他の誰が演じられるか心当たりがない。池松壮亮と染谷将太を見分けにくいというひとがしばしばいるけれど、憂いのあるのが池松壮亮で憂い少なめなのが染谷将太だと思う。憂いを基準にすると概ね見誤まらぬ気がする。私には確信のことだけれど、書きながら説得力がないとは思っている。

プレゼントには不織布マスクもあって、洗ったものでない真っ新のマスクには小さな毛羽立ちが顔へ当たる不快さが全く無く、劣化していないマスクの肌触りの良さに感激した。通院や買い物など人混みへ出るときには新しいマスクを使わせていただいており、有り難いことである。大臣や何かが屋外でマスクを着用していても感染するというようなことを言ったとして私に出来ることは他になく、マスク外出・うがい・手洗い・ステイホームである。もうあれだなと自分でも意味のわからない曖昧な降参を言って派遣会社の登録を全て抹消しており職に就くつもりがさらさらなく、通院と犬の用事と必需品の購入だけが不要不急ではない外出だ。

自宅待機の感染者に死者が出て、変異株が増え、ワクチン接種は進まぬ、と聞いて間近に迫る今夏、オリンピック・パラリンピックが出来るのか謎で、こうであれば開催或いは中止と決める具体的で明確な判断基準がどこかに必ずあると思うけれど、私などはただただ感覚的に当てずっぽうで案ずるしかなく、二年の延期としなかったのが運の尽きではと思ってしまう。東京でオリンピックと決まったとき、果たして私はそれを見ることがあるだろうかと考えたのは、自分の持ち時間がそれ程ないのではと思ったからだけれど、疫病が妨げになるとは思わなかった。予知能力が皆無と言うか、先を見越す思考が粗末と言うか。


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うるう年でなければ二月の月末は私の誕生日で、これまで、というのは私がまだ終わっていなかった頃のことだけれど、その頃であれば、午前零時に誕生日へと日付が変わると同居人から「ひねちゃん、誕生日おめでとう、これで同じ歳になったね、今年もよろしく」と、新年を迎えたときと大して変わらぬ文言の挨拶が毎年あった。学校へ通わなくなって百万年くらい経った気がするけれど、そこを考えずに言えば同居人と私は学年が一緒で、端午の節句生まれの同居人がまず歳をとり、梅雨と夏と秋と厳冬を経て、私が目出度く歳をとる。同じ年齢である三月四月の二か月と一歳違いの残りの十か月の暮らしに何の違いもないものの、「同じ」であるのを喜んでいるかのような祝いの言葉を聞くと悪い気はしなかった。何があっても我々は常に同じ側、同じ立場、同じ場所に居るだろう、そう思えて「こちらこそよろしく」と素直に返事をするのだった。照れ隠しに肩をすくめるなどして。無精ひげすら愛らしいなどと心のうちで思って。

今年になって通院先の医者から三月末に転勤するとの話があり、その医者は私からするといつまでも"新しい医者”だったけれど、馴染めぬまま思いのほか年月は流れていて、前の主治医に診てもらわなくなって三年が過ぎていた。三年前、頼りの主治医を失い途方に暮れたとき、私の終わりは割と直ぐそこに迫っていた。最後に受診した三月三十一日の夕方、至近のカインズの駐車場から病院の方角にブルームーンと呼ばれる満月を眺め、先生がいなくなってしまう会えなくなってしまうと心細くさみしく思ったけれど、今となっては随分暢気だった。頼りの主治医を手始めに、大切な何もかもを失うとは考えていなかった。得たものはやがて失う。物の道理であるのに。

父と母とそれから子どもの頃に世話をした犬二匹は寿命を生きなかった。時に出会う打ち解けられるひととは何かしらの事情で離れた。私が思い入れを持つと去る。そうした決まりがあるような気がして出来るだけ何にも執着せぬよう心掛けた。それでも前の主治医などはどうにも好きで、転勤の話が出たときには失敗した好きになり過ぎたと思った。母との関係は複雑だったし、好きでも何でもない"新しい医者"も転勤した訳だけれど。

常々、いい加減にしてほしい、これ以上何も奪わないでほしいと思っていた。平均値など知らぬが、私は両親と犬を早く失ったと思っており、誰かと親しくなれば離れ離れになる気がしていて、そういう悲しみさみしさは充分に味わった。これよりまだ急な何かがあってはバランスが悪い。あからさまな狙い撃ちでやってられない。不公平だ。耐えられない。そんな思いが強く強くあって、もう大して酷い目には遭わないのではと期待した。そうであろうと信じてすらいた。どこかで誰かが運命を操ったりバランスを気にしたりしている筈もないのに。

小学生の頃、予防接種は出席番号順に注射されて、出席番号の後ろのほうだった私は順番待ちが嫌で面倒なことはさっさと済ませたかった。その小さな望みは一度も叶わなかったけれど、それとこれとは全く別の話ですよということに限って順番が早々と回ってくる。

それで二年前の二月に私は喪主を務めた。泣きもせずに。悲しんでいるか怪しいと詰られながら。でも、何て言うか、泣いたら本当のことになってしまう気がするんだよね、どうしても受け入れられないあれこれが。私は犬たちと留守番している。そう思っていたい。おみやげは何かなとか、電話がないなとか、待ちくたびれたねと言いながら。

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