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ガーベラのエリザベスカラー [日々の暮らしで思うこと]

Sunday, 21st August 2022

お久しぶりです。ひねもすです。皆様いかがお過ごしでしょうか。私はと申せば、冬眠も永眠もせず時々午睡をして夜は夜で寝て、どうにか生きています。大学芋の拵え方を覚えたり、犬の吐瀉物臭のする毛布を洗濯によりレノア臭に変えて物干し竿へぶら下げたり、風呂へ浸かっていると湯船の湯すべてが自ら流した涙のように思えてくる悲しい感じに苛まれたり、オギくんオギくんという音声に小木博明がいると期待したテレビ画面に尾木ママを見たり、そんな具合です。そんな具合ですが、また日記を書きます。書きやがります。読んでください。

給湯器が壊れたのは一昨年のことだったと思う。風呂へ入れぬのは不便なのだけど、Pさんが私にPさんの住居で過ごしてよいと言って、お言葉に甘えて不便さを忘れた。それで愚図愚図していて重い重い腰をあげたのが昨秋終わり頃のことで、給湯器を買い替えたいとガス屋へ電話した。ガス屋が見積もりに来たのが12月になってからで、見積書を受け取ったのが二週間後くらい、受け取って直ぐに発注をしたけれど、報道にある通り給湯器は不足しており、交換されたのは5月であった。ただ大人しく待っているには時間があり過ぎた。ガス屋が置いていったチラシをめくるなどするうち、便器も交換したい、そう思いついてしまい、その旨ガス屋に伝えた。便器もご多分に漏れず品不足、こちらは未だ入荷待ちだ。なので涙を溜める湯船はPさん宅の湯船である。そう言えばホームセンターのリフォームコーナーに便器はひとりひとつまでなんて貼り紙を見たわねなんて思いながら。

交換したいものの交換が済んだなら犬と犬と私は正々堂々帰宅する算段で、そのときにはPさんも私の家へ来て一緒に暮らすものと思う。入荷待ちの時間はこれからもPさんと暮らす気持ちを固めるための猶予期間と言える。疾うに決心していていいようなものだけれどやはり同居人以外のひととの同居はしなくて済むならしたくないのだった。

血のつながりがあるとはいえ、或いはあるからこそ、Pさんとはなかなか気が合わない。例えば先日、Pさんの運転するクルマの助手席にのほほんと収まっていたときのこと。Pさんが自身の左肩あたりを顎で示しながら「肘を上げて」と言った。私は何の疑問も持たずPさんの左肘を掴んで持ち上げたのだけど「違うよ、肘掛けに決まってんじゃん」と言うのだった。左肘が肘掛けに当たり運転しにくいから座席横に格納せよという指令だったのだ。考えれば他者に肘を持ち上げてもらう理由なんて思いつかないから間違えた私が悪い感じもするけれど、肘掛けを肘と言うからだよ、そもそも。とも思う。で、お互いにそそっかしいわねとか笑い合って終われば忘れてしまえる些細なことなのにPさんは結構きつめに怒ってくるから人生って厳しいなって石ころを蹴りたい気持ちになる。

何年か前に手帳のおまけで手に入れたサイコロがある。サイコロはふたつあって、ひとつには牛や野菜や魚などの食材の絵が描かれていて、もうひとつには煮る焼く揚げるなどの調理方法が書かれている。もらったまま使わずにいたサイコロを気まぐれに振ってみると食材は豚、調理方法はそのまま(=生)が出て、メニューに迷ったときの助けとなるべきサイコロが全く役に立たないことを知る。生の豚肉なんて食べませんよ、あたいは。と、サイコロを再び紅茶の缶へ仕舞い込んだ。さて夕食。Pさんが豚ロースのソテーを出してくれて食べたら生焼けなのだよね、サイコロについて何も伝えていないのに。私は生肉が供されるなんて思いもせぬからロースの切り身にフォークを突き立てて持ち上げがぶりと齧っていて、勢いでひとくち食べてしまってから生と気付いたのだった。Pさんに生だと伝えると食べてないよねと訊かれ、ひとくち食べちゃったと答えて叱られた。割とヒステリックに。大人はそんな食べ方をしないとか何とか。豚肉の生なんて死ぬとか何とか。生で出さなきゃ済む話ですよ、そもそも。と思うだけ思って言わない。大抵毎日そんな感じで、荷が重い。もっとふざけて暮らしたい。

過日、島田雅彦の現代ビジネスへの寄稿文を読んだ。私が思うことに近く、それが的確な言葉で的確に表現されていて少し感動した。全文をコピーして携帯電話のメモ帳へ保存するくらいに。それで島田雅彦の書いたものをこれまで読んだことがなかったのだけれど「パンとサーカス」を買ってみた。この後どうなるのだろうと最後まで興味を持たせ続けるので五百ページを超えるものの一息に読むことができた。では再び読むことがあるか或いは別の作品を読んでみたいかと言うとそうでもない。先のことはわからないけれど。

島田雅彦は安倍元首相の国葬についてTwitterで「政権がカルトと持ちつ持たれつであると世界へ発信することになる」と言っていたと思う。私は事実そういうことのようなのでそれを世界へ発信してもらって構わぬのだけど、国葬に値するようなひとではなかったと思っている。理由は異なるが私も国葬に反対だ。布マスクの配布さえ止めることはできなかったのだから反対してもどうにもならぬだろうけれど反対であると言ってはおきたい。

布マスクなんかはどういう疫病かわからない状況でしたことと言われれば仕方ないと思うこともできるけれど、結果として無駄になったことを悪びれもせず軽口を叩くみたいな態度は受け入れ難い。何事にしてもほんの一瞬も国民に対して誠実であったとは思えない。国葬なんてあり得ない。民主主義とは何なのか、少数意見はいつどこで尊重されるのか。さっぱりわからない。
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