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砂時計の音。 [愚]

Monday , 9 march 2009

シールの類に異常に反応するひとがいて煩わしい。
買ったものに性能の書かれたシールなどを貼ったままいれば貧乏臭いとやたら騒ぐ。
転売を考えている訳でもなく存在に気付かなかったに過ぎぬことが貧乏なのかと思うも
金持ちと貧乏に分けたなら、堂々貧乏入り、何なら殿堂入りも辞さず、快く受け入れる。
しかし、匂いを放つほど重度にはない筈で、その辺の繊細さかつ微妙さを知れと強く強く思う。
貧乏と言われることでなく貧乏臭いと言われることが腹立たしいのである。偽物臭くて。

今はそれらに属していないが、母親と暮らしていた頃は町内会に入っていた。
母親はそうした雑事に関わりの持てぬひとで、町内会の活動には私が参加した。
清掃などの様々な行事に加わり、会を細分化した班の長を務める十歳やそこいらのクソガキが
周囲の目にどう映ったか知らぬが、私は一人前の責任を果たしたつもりでいる。
そういうつもりでいるから、何か思うところがあれば、生意気にもそれを披露するのである。

赤い羽根共同募金は時期が来ると金額の書き込まれた領収証のようなものが用意され
町内会全世帯に対して一律いくらと決められた額を決まりごとのように集める。
そこに書かれた額より多いことも少ないことも募金せぬことも選べないと言う周囲に
必要な金額を集めるには有効なやり方かもしらんが、これが果たして募金かと訴えた。
これまでそうしてきたのだから、これからもそうしていくというのが彼らの答えで
あなた方がそう決めるのは自由だけれども、私は納得出来ぬので募金しないと言い、そうした。
募金への思いは今も変わらず、それを善意と呼ぶなら、各人の善意に任せるべきと考えている。

そのように何かと面倒な小学生であった私はそのまま何かと面倒な中学生になる。
入学を控え、役所のひとか誰かがやって来て、いくつかモノをくれた。
その中に1冊の英和辞書があり、奥付には赤い羽根がどうとかというシールが貼られていて
共同募金のひとがどう選んだのかは知らぬが
私は恵まれないひととして愛の手を差し伸べられたのだった。

辞書は中学生には不相応なほど立派で、差し伸べられた手に感謝した。
募金の集め方とは勝手ながら分けて考えた。それはそれ、これはこれである。
であるので、それはもう素直に赤い羽根共同募金ありがとうと感謝の気持ちでいたのだが
気付くと奥付に貼られた赤い羽根がどうとかというシールを剥がしていた。
あっと思ったときにはシールは指先でくるりと丸まっており、後戻りできぬ。
剥がしたからと何の不都合も生じなかったが、剥がした理由が分からない。
シールの有無によらず、世間的に何か恵まれぬひとであることに変わりないのである。

2009-03-18 14:50 更新
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