元気になるのを待ってるよ! [愚]
Tuesday, 29 July 2008
朝の散歩で失敗をやらかして落ち込む。
更に追い討ちをかけるように復職困難な見込みが拡大したりするのだけども
全く希望がなくなったという訳でもないので努力は続ける。
気になるのは友達。一秒でも早く元気になってもらえるよう願掛け気味にネガティブ断ち。
神仏を信じてはいないのだが、少なくとも私のことで心配はかけたくない。
我々は自分に備わっているものをほとんど思うことなく
いつも欠けているものについて考える
と言ったのは Arthur Schopenhauer(1788-1860)である。
あるものよりないもののほうが必要と感じるので意識するのは当然であるが
わざわざ書物に著すのは、私のような者が足りぬものを数えて悩むのを戒めるためかもしれぬ。
備わった脂肪やなんかを考えることがあるが負の要因によるもので欠けているのと同じである。
何が足りぬといって理性や知性は諦めているが社会への順応性の欠如は生活に不便である。
瑣末な例を挙げればバスなどは乗車した途端、降車したくなる。
数秒で降車しては目的地へは少しも近付かず乗車した意味が全くないのである。
バスなど乗らなくても徒歩やら匍匐前進やらって遅いけども他の手段を探せば良いが
時に素晴らしく順応しているひとなどを見ると同じ人間とは思えなかったりする。
我々は、他の人たちと同じようになろうとして、 自分自身の四分の三を喪失してしまう
と言ったのも Arthur Schopenhauer(1788-1860)である。
どのような素晴らしさかと言えば、路線バスの最前列に席をとり
カードを用いて、占いだか、ゲームだかをしているのである。
本を読むことさえ想像のつかぬ私には揺れる車内で下を向き
持参した板か何かにカードを広げそれらを落とすことなく操られては
どこかの雑技団にでも所属しているのだろうかと思ってしまう。
勿論、私はバスに乗らぬのでこれはバスの外から眺めたものである。
停車中のバスを見かけ発見して以来、注目しているが未だ3回しか見たことがない。
うち1回はカーブを曲がるところであったが膝の上には板とカードが確認できた。
もっとも何ごとも無くバスに乗るひとに聞くと
乗車中にカードといった面倒なことをやる必要がどこにあるのか理解できぬと言う。
私も注目しているだけで理解してはいないのだが。
時に酷く順応していないひとを見ると同類に見えるかというと、また違う。
戻れるか知れぬ勤務先にKGYというのがいて、見た目は落ち着いて見えるが粗忽である。
ただ棚の箱を取ろうとして何故か顔面で受け止め額を骨折という訳のわからぬことをする。
今もまたソフトボールで何かしでかし、足を複雑骨折、全治一年って
そこまでソフトボールに入れ込むなって怪我をしているのである。
彼も同じ人間とは思えぬ。思えと言われても断る。
私は額も足も無事で、友達を案じているほかは何の問題もない。
朝の散歩で失敗をやらかして落ち込む。
更に追い討ちをかけるように復職困難な見込みが拡大したりするのだけども
全く希望がなくなったという訳でもないので努力は続ける。
気になるのは友達。一秒でも早く元気になってもらえるよう願掛け気味にネガティブ断ち。
神仏を信じてはいないのだが、少なくとも私のことで心配はかけたくない。
我々は自分に備わっているものをほとんど思うことなく
いつも欠けているものについて考える
と言ったのは Arthur Schopenhauer(1788-1860)である。
あるものよりないもののほうが必要と感じるので意識するのは当然であるが
わざわざ書物に著すのは、私のような者が足りぬものを数えて悩むのを戒めるためかもしれぬ。
備わった脂肪やなんかを考えることがあるが負の要因によるもので欠けているのと同じである。
何が足りぬといって理性や知性は諦めているが社会への順応性の欠如は生活に不便である。
瑣末な例を挙げればバスなどは乗車した途端、降車したくなる。
数秒で降車しては目的地へは少しも近付かず乗車した意味が全くないのである。
バスなど乗らなくても徒歩やら匍匐前進やらって遅いけども他の手段を探せば良いが
時に素晴らしく順応しているひとなどを見ると同じ人間とは思えなかったりする。
我々は、他の人たちと同じようになろうとして、 自分自身の四分の三を喪失してしまう
と言ったのも Arthur Schopenhauer(1788-1860)である。
どのような素晴らしさかと言えば、路線バスの最前列に席をとり
カードを用いて、占いだか、ゲームだかをしているのである。
本を読むことさえ想像のつかぬ私には揺れる車内で下を向き
持参した板か何かにカードを広げそれらを落とすことなく操られては
どこかの雑技団にでも所属しているのだろうかと思ってしまう。
勿論、私はバスに乗らぬのでこれはバスの外から眺めたものである。
停車中のバスを見かけ発見して以来、注目しているが未だ3回しか見たことがない。
うち1回はカーブを曲がるところであったが膝の上には板とカードが確認できた。
もっとも何ごとも無くバスに乗るひとに聞くと
乗車中にカードといった面倒なことをやる必要がどこにあるのか理解できぬと言う。
私も注目しているだけで理解してはいないのだが。
時に酷く順応していないひとを見ると同類に見えるかというと、また違う。
戻れるか知れぬ勤務先にKGYというのがいて、見た目は落ち着いて見えるが粗忽である。
ただ棚の箱を取ろうとして何故か顔面で受け止め額を骨折という訳のわからぬことをする。
今もまたソフトボールで何かしでかし、足を複雑骨折、全治一年って
そこまでソフトボールに入れ込むなって怪我をしているのである。
彼も同じ人間とは思えぬ。思えと言われても断る。
私は額も足も無事で、友達を案じているほかは何の問題もない。
完全無欠の球体を目指す。
全の物が本能的に潜在意識の中に組み込まれてると思う。
他人と見比べる事も、欠けてるトコを再確認するのも
動物的な本能から考えたらより良い子孫を残す為に当たり前の事なんじゃないか・・て思う。
ただ、幸か不幸か人間はそれ以上の思考力を持って本能剥き出しにはならない。
それこそ自分なりのポリシーや意味を持ちたがる気がする。
デモ、元は動物。
そこを原点に考えるようにしたら、
全ての人がどうであろうと人間は1人で完璧は無理だと悟った。
地球上の全ての動物の頂点に立つ人間でも・・・
足りない所を「足りないから手を貸して」と、
そう素直に言える人間を今の目指し中。
その裏には、反対の立場も自分なんだって思う気持ち・・・
お互いが分け合い足す事で完全球体を目指す。
そういう事を意味づけて考えられる事こそ、人間じゃないかと・・。
卑下も要らない、誇張も要らない、ただ自分であると言う事。
そんな風に思うと、いじけたりしてる自分は意味が無いな?
・・・て思い直せたりする。
実に勝手な妄想ダケド、これが結構自分の中で主導権を握ってて、
お陰で、折れても必ず復活!!と言うタフさも合ったりする。
・・・勝手なコメントを長々とごめんよ。ひねひね
ひねひねの心は、綺麗過ぎて折れやすいんじゃないかと・・・
そんな所に惹かれたりもしてるのダケド。
おば猫の図太さを少し分けてあげたい気分w
by 日なたで猫 (2008-07-29 23:57)
猫さん、おはよ!
完全無欠の球体をひとりで目指すのは難しいね。
かと言って他のひとたちと協力するのも容易くない。
卑下も誇張もなしに
私が加わることで歪みが生じないかって不安はある。
ひとりで目指すとしたら自分自身の納得かな。
そうすると「自分であること」を認めるってことで
自己完結だけど球体を目指すのに似てくる。
まだまだ自分が認められずにいるから
猫さんみたいなタフさは備わらないけど。
私の心が綺麗ってことはないよ。
単純で剥き出しなのと少し複雑で奥に隠れているのが
混在していて扱い難いだけ。
強くならなくちゃとは思ってる。
ほんと、どうもありがと!
by hinemosu-bomb (2008-07-30 08:11)