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レプリカントの涙 [日々の暮らしで思うこと]

Saturday,21st November 2020

昨晩は昨晩でPさんから貰った萎れた春菊一束とベーコンでスパゲティを拵えた。加熱すると萎れ春菊は更に縮み余裕で一皿へ盛ることの出来るスパゲティとなり残さず食べた。後半から歯の裏側が微かにざらつき渋くギシギシしたけれど春菊をたくさん食べるとそんな感じではと思う。食べる途中でPさんから連絡があったので歯の裏の件を伝えると悪いなら捨てるようにとのことで大丈夫なので食べると返した。食品ロスより身体が大事とも言ってくるのでギシギシを持ち出すべきではなかった失敗したと思う。Pさんは駄目なら捨ててと服や食べ物をくれるけれど親切なのか面倒の押し付けなのかわからない。

一昨晩、歯磨きを終えたつもりで洗面台に背を向けると突然、歯を磨いたかどうかわからなくなった。二秒前のことが判然としない。口の中にリステリンの気配があり磨いた可能性が高いとまでは思いながら自分を信じ切れずに歯を磨く。磨いていないのではと疑い続けるより、磨いてしまうほうが気楽だと思ったけれど、直前の行動を憶えていないのは少し怖い。ひとつながりの筈の自分が細切れに存在するようで、私と言うときの私がいつも同じ私なのか自信がない。

心とか魂とか呼び名はあるものの、あるのかないのか、あるとしたらどこにあるのかと思っていて、例えば髪や爪を切ったとき、私は勝手に残った大部分を私と呼ぶけれど、実は切り取った髪や爪ひとつひとつに心があって、それらはそれらで私として何か思っていたりしないのだろうか。

私、私と書くものの、余所行きの一人称で、社会性が皆無ではなく敵意も大してありませんという印に使っている。そう言って何の判断もされずに済むなら、朕とか麿とかあたいとか呼称(ここで言えば、ひね)で通したい。まあ私自身、「朕は」などと話しかけられたら警戒はするので、刷り込みというか因果というか。ひとは適切な一人称をどう決めているのかしら。

気付くと町田さんの日録が半年くらい更新されておらず、私が見つけられずにいるだけなのか、長々続くものをやめてしまったのかわからない。気付くのが遅過ぎるけれど、もし、やめてしまったのだったら残念に思う。

旅券とクレジットカードがあればどこにでも行くことが出来ると思っていた。するかどうかは別にして高飛び出来るというのは救われる話だ。急いで高飛びせねばという事情はないけれど、思ったときに思うように出来ないのは窮屈に思う。旅券が期限切れで。
切れた旅券にはNeil Codlingのサインと前の主治医の励ましの言葉とが書かれているのと英仏海峡を列車で移動してロンドンとパリの入出国スタンプに汽車の図というのがポイントで、守り札としてとても有効。直に経済的に余裕の出来る計画があって、同居人と英国ベースの旅に出て、欧州のどこかでMUSEのライヴへ行こうなどと話し合っていたけれど、旅券の更新はしない。今は。或いは永久に。
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