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槍を持ち鰐を飼い馴らせ [ずっと、ずっと、前のこと]

Wednesday, 2nd December 2020

肌寒く、曇ってもいて、今日は駄目だなと思う。プラスティックゴミを捨てず、犬の散歩をしない。茶犬は関節に症状があり、冬は注意が要る。と書いて冬なのか、と思う。秋がいつ来ていつ去ったのか判然としない。気象庁であっても梅雨入りした模様などと濁すとき、何の蓄積した歴史もなく日々の記録もせず気温の変化に鈍感では季節の移り変わりなど掴みようがない。けれど茶犬を言い訳にしたものの寒くて外へ出たくないとは思って、頭より先に身体が冬を観測した模様。それにしても。

空気がキーンと冷えた感じ、余計な水分を含まない感じ、穏やかな太陽、虫の目立たなさ、長袖の服、外套、灯油ストーブ、ストーブへ置く薬缶、薬缶で沸く湯、水溜まりに張る氷、霜柱、時に降る雪。そうしたもので出来る冬を私は好み、冬に生まれたからと思ってきたけれど、不意に、冬は苦手だ嫌いだと思っていて、一番好きな季節を失くしたかもしれない。

フィラリア予防薬ネクスガードスぺクトラを、白犬へはキリ(チーズ)で包んで、茶犬にはそのまま、どうにか朝のうちにあげた。朝ごはんに豚肉とブロッコリーと魚ベースのドッグフード、夕ごはんに鶏のささみと林檎と魚ベースのドッグフードをあげた。先日の受診で隔日投与から毎日に増えたステロイド剤には猛烈な空腹感を呼ぶ副作用があって、茶犬は明らかに腹ペコちゃんに化けた。うっかりすると食べ過ぎてしまうので気をつけなくては。私は朝と昼にいちごジャムを塗ったトーストと林檎を、夜に大根の葉と納豆を入れたスパゲティを食べた。それから、夜半に虹色の綿菓子を一息に食べ尽くした。気をつけなくては。

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父とクリスマスツリーを飾った記憶があって、父は私が十歳のときに死んだので、そう何回もしたことではないけれど、私にとって重要な行事だったように憶えている。多分、初めて飾り付けたとき、樅の木に千切った綿を載せ雪化粧した。分厚くては形が悪く、薄過ぎては雪らしくなく、程よく千切ってどうにか綿を雪に変えることが出来る。その工夫が魔法のようで面白かった。あるとき綿のないことがあって、私は父に綿がなくては飾り付けが完成しないと訴えた。もしかしたら、それを聞いた父が母に綿を買って来るよう言ったのかもしれない。母は何かにつけ私のことを「パパにそっくりで難しくて困る」と誰彼なく何遍も繰り返し繰り返し言っていたけれど、そういう私の執着で、知らずに母へ負担をかけていたのだろうか。自覚している難しさの他に。

母は私から見ると奔放で勝手なひとではあったものの彼女なりの分別があった。私が小学五年生のとき、一緒に登校する低学年のひとがいて、ある朝、持って行くべき国語のノートが無いと言って困っていた。私は少し前に子ども会のくじ引きで低学年向の国語のノートを貰っていたので家から持ってきて、これを使ってください、いらないからあげます、貰ったものなので気にしないでと言って渡した。使い道のない国語のノートが最善の形で行き先を得た、そう思い、得意な気持ちでいた。けれど夕方、低学年の母親がノート一冊には不釣り合いなお返しを持って礼を言いに来て、私は使わないものをあげただけと頑張ったけれど、母に促されお返しを受け取った。母は「ウチのような母子家庭から物を貰っては気が引ける、時には不愉快というひとは幾らでもいる」と普通の顔で言った。「難しくて困る」に戻れば「夫にそっくり」と言わず「パパに」と言うのは話し相手でなく私に聞かせていたのだと思う。十歳の私に婚約者のことを話したのも理由があるのだろう。医者や何かで裕福なひとだったらしく、父が逃げ出すように死んでは、道を誤ったと母が考えても仕方ない。

八歳まで住んでいた家の前が坂の入り口で、バス通りから家の辺りまでがほぼ平ら、家を過ぎると長い長い下り坂だった。滑り止めの丸があったように思うので急坂だったかもしれない。私は三輪車で坂の天辺から坂の終わりまで一気に滑り降りていく、という遊びが好きで、交差する道路もあって危ないのだけど、三輪車へ乗るような歳でなくなっても誰かの三輪車を借りて、ひとりで飽きることなく幾度でも滑り降りていた。母からは危ないから止めるよう言われた気がするけれど住んでいる間はずっと滑り降りていた。誰かに怪我をさせることも自動車に衝突することもなくて運がよかったと思う。

ある冬、大雪が降り、父は即席の橇をつくって乗せてくれた。空き地の緩やかな傾斜を父がロープで引く橇に乗って滑った。妹は確か、ギプスをしていて歩けず、父と私が橇で遊ぶのを窓から見ていた。母がどうしていたか憶えていない。父が生きていたとき、父は私の全てと言ってよく、母や妹に親しみを持てなかった。同級生や教師にも同様だったので、母や妹ではなく私に問題があったと思う。さて、大雪の日にはしゃいでいるのは父と私だけではなかった。家の前にひとが集まっており、見れば、スキー。普段、私が三輪車で滑り降りる坂道を大人が次々滑り降りていく。スキー板を履いて、ストックを握って。父以外の大人が遊んでいる姿を見ていなかったためか、大人がはしゃいで遊ぶことに胸打たれた。雪の日に遊ぶ大人になりたいと思った。私は背が低くて、家の中から道行くひとを眺めながら、早くあのひとたちのように大きくなりたいものだと考えていた。身長が二倍になることを大人になることだと思っていた。そうした見かけでなく、こういう心がけの大人になりたいと思ったのは初めてだった気がする。

まだ、そこへ住んでいたとき、坂の入り口を夢で見た。二匹で道を塞ぐ大きな狛犬のような何かが、それ自体が発する火に包まれ、ボーボーと燃えていた。燃えながら大きな狛犬もどきは二匹で踊るように滑らかな動きで牽制する。二匹の向こうに両親が、こちら側には私と妹と、ふたつに分かれ分かれでどうにも出来ない。物語はなく、ただそれだけのことなのに、それまでに見たどの夢よりも怖かった。目覚めれば、何が怖かったのか解らなくなったけれど、地獄というのはあんな感じではと思い、夢で見た景色は忘れることが出来なかった。

親戚の家へ預けられたとき、たった数か月の間に、親戚のおばさんから不条理な理由で誰々と遊んではいけないと言われることがあった。父も母もそうしたことを言わないひとで、偶々そうだったのかもしれないけれど、私をどう育てるか考えがあったのではとも思う。重荷として持て余すだけでなく、どんな人間になって欲しいか望みがあったとしたら。
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