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ニャスビシュのラジビウの城 [日々の暮らしで思うこと]

Wednesday, 6th January 2021

Pさんの家で寝起きして、もうよくなった気がして家へ帰りたい。咳と微熱がまだあり、Pさんは心配だと言い、何も起こらないと思っている私にも不安はあって、Pさん宅に居残る。それでも家へ帰りたいとは強く強く思って、場所なのか、暮らし方なのか、家そのものなのか、他の何かなのか、わからないけれど、何かが待っているようで胸の張り裂けるかの思いがする。帰巣本能だろうか。幼い頃を過ごした辺りを懐かしむけれど、私は疾うに帰る場所、居るべき場所を別に持っていた。

小学校一年生から三年生まで、成績表の通信欄にはいつも「動作が鈍い」と書かれていた。愚図愚図して間に合いそうにないからと、母が手を引いて連れて行ってくれたりもして、この学校へ通っていたときは無遅刻無欠席無早退で、様々な流行り病にいち早く罹っていた保育園児のときからすると大きな進歩なのだけど「動作が鈍い」とは。字面の悪さは言うまでもなく「ドウサガニブイ」という響きがもう致命的な欠陥に聞こえる。知らずに愚図愚図してしまうらしいことや給食を食べるのと走るのが遅いとわかっていたけれど、どうしたら早くできるのかわからない。きちんと畳む、静かに閉じる、大きい声で言うなど明確な解決のない「動作が鈍い」には、いつも続けて「頑張りましょう」とあって、救いがなかった。鈍いの呪い。転校して担任が変わるまでずっと書かれ続けた。

書いていたのは学年主任のベテラン教師と言われる担任で、厳しい指導で信頼を得ているひとだったけれど、一年生の家庭訪問の時、親の前で態度が違い失望した。椅子へ座った彼が私を膝へ乗せて気分が悪かった。普段は呼び捨てするのをちゃん付けで、あからさまな猫撫で声で、乱暴さ横暴さは少しも見せず、インチキだなと思った。その場で父にいつもはこうではないと言い、父は親の前でその子どもを大切に扱うのは礼儀かもしれないと言ったように思う。担任がどういう顔で会話を聞いたかわからない。聞いたなら、気拙かっただろうか。これは多くのひとが立派だとか感心だというひとを必ずしも信用できないと知る初めの経験だったと思う。顔も声も思い出さないけれど、牛がウッシッシー、題が無いのは台無し、選挙に行かないのはキケンなど彼の発した駄洒落は忘れていない。わからないことは多いけれど、6歳でもいろいろ考えることができる、子どもだからと何もわからないというような扱いは理不尽と思い、そういう大人にならないようにしようと思っていた。自宅の畳に寝そべって或いは校庭の隅に植わる百日紅の木のコブへ腰かけて。

私は読んだり考えたりするのが好きで、小学生向けのクイズやなぞなぞは大抵答えられた。読み間違うと交代というような朗読をすると私のあとのひとには順番が回らなかった。父以外の大抵のひとが苦手で、ひと言話すのにいちいち苦心が要り、運動能力や体格は同級生に劣り、忘れ物が少なくなく不器用で、学校生活には苦にせずできること、得意と思えることが必要だった。そうしたものは父と話すことと本を読むことでどうにかなる気でいた。国語の時間に「このとき主人公はどう思ったでしょう」と問われ、答えとなりそうなことを想像して答えると「参考書の模範解答と全く同じでカンニングである」と同級生に咎められた。どう思ったかを考えず、正答を予想した答えで、家では勉強をする習慣がなく、参考書は買ったことも触ったこともなかった。けれどそう言って潔白を主張せず「前もって勉強して覚えたことを答えられないならテストは全て白紙で出さなくてはならない」と理屈を捏ねた。カンニングカンニングと騒いだひとは皆黙り、反論するひとはいなかった。どちらを言ってもよく、どちらにしても生意気だが、理屈を選び、潔白を棄てた。何かと自爆ボタンを押しがちである。考えも無しに。時には考えに考えて。

これをすると母が困ると知っていてわざとせずにはいられず、真っ白な日傘をドブへ投げ入れたり、整えられたシーツを皺くちゃに丸めたりして、また、窓の外の遠くに見える木が夜になると家へ向かって歩いてくるようで目が離せず、暗くなると窓から一点を見続けるなどもあって、母は私をどう扱ってよいか困り果て、知り合いや友人や姉妹や弟の妻に電話で相談することがあった。あなたは二歳でアルファベットを読んで、小さな子どもに詰め込み過ぎと周りから言われて苦しかったなどと、度々責めた。教えないものを勝手に読んだというお叱りなのだけど、カンで読める訳がなく教えられたに決まっており、教えずに読むほうが怖い。後になって、遠回しに賢いと褒めたのかなと思ったりもした。賢くも何ともないけれど。私が乳児のときに雪村いづみに抱っこされたことは嬉しそうに何度か言っていて純粋に自慢の話に聞いたけれど、雪村いづみというひとを知らなかった。調べて、自慢に思うであろうひとのように思い「今はバラ色が好き」という曲を聞いた。詞を谷川俊太郎が書いた曲だ。優しく丁寧に歌っていて人柄のよさを感じ、このひとに抱っこされたことがあるのかと心が和んだ。何も憶えていないけれど。

Pさんの一番古い記憶は保育園のベッドで目覚めたところらしい。ベッドの柵越しに世界を見たところから人生が始まったように聞いた。三島由紀夫は産道を通ったときの記憶があったと聞いた気がするが、映画「ブリキの太鼓」の話だったかもしれない。しかし「ブリキの太鼓」には成長を拒否、乾いた太鼓の音、ヒステリックな叫び声、唾、砂と断片的な記憶しかなく、産道で思い出す理由がわからない。

私の一番古い記憶は入院した母を父と見舞いに行ったときのものだと思う。母がPさんの出産で入院していたときで2歳3か月のことだ。そう長くない筈だけれど何日かぶりに母と会うのが恥ずかしく、尻込みして近づけず父の手を握って離さなかった。それだけ憶えている。Pさんが生まれていたのかどうかわからない。一番古い記憶の中には父と母と私だけがいる。
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