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海のきゅうりとえんどう豆のカニ [日々の暮らしで思うこと]

Thursday, 14th January 2021

マスクはできるだけ丁寧に押し洗いして、清潔を目指しつつ素材が傷まぬような手入れを心がけてはいるものの、そう思い通りになるものでなく、目詰まりか素材の劣化か何か、使うと息苦しくなるマスクが出てきた。初めはどれが何回目の洗濯とわかっていたけれど、次第にどれがどれだかわからなくなった。そんなものが三十枚くらいあって、総入れ替えできるほど未だマスクの入手は容易でなく、呼吸しにくくなったものを徐々に捨てていこうと思う。ウレタンマスクはいつまでも呼吸しやすさが続くけれど、感染予防に効果的でないと聞いて、散歩など外気に触れるときならよさそうに思って使う。見たところ劣化した気がせず半永久的に使えてしまうのではと淡く期待したら、そっと引っ張って耳へ掛ける部分が千切れて、こちらも順調に古くなっていた。マスクは元々消耗品だったことを思い出す。一回使って捨てていたなんて遠い過去のことのよう。

私も順調に古くなっていて、ひとはどこで老化を思うか知らないけれど、前後に太る感じがして、あら、と思った。太るのは横へ広がるものと思っていると、前後へ厚みが増すように肥大する私、というものに気付いて歳をとるというのはこれだと思った。これだと見つけて喜べる宝物や隠し絵とは異なり、野放しに進まれては困る老化で、真面目に痩せるべきだと思う。正面から入れぬ幅だからと横向きになりスイスイ抜けようとして進路へハマるような悲喜劇が起こる前にどうにかしたい。それにしても、人生には様々なトラップが用意されている。癪なのでこれと言った反応をせずに、無表情で無感動にかわしていきたい。誰に対する意地だかわからないけれど。

コンビニエンスストアがもう無理だなと思った頃、宅配便の中継センターで荷物を仕分けるアルバイトをした。一時的には重複しており、コンビニエンスストアへ行った後、荷物の仕分けへ出るなど、私にしては頑張った。センターは宅配便企業の中では最先端の設備を導入したものらしいのだけど、機械ができることには限界があり、と言うか、機械化自動化に現場を知るひとがいなかったとしか思えぬ設備だった。配送地域ごとに大きな滑り台みたいなものがいくつもあって、機械に振り分けられた荷物が滑り落ちてくる。伝票を読み取り、どの滑り台へ流すか、それだけが機械化されていた。じゃんじゃん滑り落ちてくる荷物を配送小型コンテナへ詰めるのは人間の仕事である。

荷物には番号が振られていて、バラバラに落ちてくる荷物を番号ごとに指定のコンテナへ詰める。ひとつの滑り台に大抵ふたりが配置され輸送先別に十個くらいのコンテナへ詰めていく。荷物の大きさは様々あって組み合わせが難しいけれど、次々に滑り落ちてくる荷物を停滞させず、指定のコンテナへ誤りなく、無駄なく、隙間なく詰め込まなくてはならない。それらをしながら重さが規定を超えていそうなものや伝票の剥がれたものなどを選り分けもする。企業からの大口のものなど短時間に大量の荷物が流れると作業が追いつかず、滑り台に荷物が溜まり、溢れるばかりになっても機械は振り分けるのを滅多にやめない。溜まった荷物をコンテナ脇へ取り敢えず積み上げて、他の滑り台から手伝いに来てもらってこなす、逆に間に合わない滑り台へ手伝いに行くというのが日常的で、機械化してこの効率の悪さは何なのか疑問だったけれど、皆、荷物の流れに追いつかない人間が悪いと考えているようだった。

扱う荷物は冷凍品と冷蔵品で、小型コンテナは冷凍庫や冷蔵庫、作業する部屋は4℃から6℃くらい。詰め終えると荷出し口別に人間がぞろぞろ列をなしてひとつひとつコンテナを運ぶ。コンテナに轢かれたり押し潰されたりせぬよう指導を受けたけれど、コンテナの中に積み木のように荷を積むのは難しいにしても、詰め終えたコンテナを指定の荷出し口へ移動させるくらいのことは機械化すべきだ。化粧室へ行くと明かりが自動で灯ったり消えたり、手を出せば石鹸や湯が出たりしたけれど、どう考えても、そこじゃない。そんな気持ちと常に追われる感じと寒さに耐えられず、不甲斐ないように思ったけれど、荷分けのアルバイトは長く続かなかった。二か月働いて一か月休むような社保逃れを行う企業でもあって、もっと頑張るべきだったとも言い切れない。精神的に弱っていると不採用になることを過度に恐れ、採用されやすさだけで仕事を選んで失敗する悪循環のようなものは痛切に学んだ。
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焼きオオヤマネの蜂蜜漬け [日々の暮らしで思うこと]

Wednesday, 13th January 2021

今月もガス料金が277円で、計測に来てもらって申し訳ない。留守がちであるのにタイミングよくと言うか悪くと言うか、玄関を出ると計測のひとがいて、請求金額277円とプリントした紙を手渡され、抗議行動だったりせぬかと慌てた。壊れた給湯器の交換を申し込んでおらず、帰宅も日に十分程度で、ガスを使う用途も暇もない。体調が戻り、自宅へ戻り、人間の生活を手に入れたなら、ガス給湯器を交換して毎日入浴して、それなりのガス料金を払いたい。書き初めの習慣があれば、その旨、毛筆でしたためたいほどの決意である。

犬の医療保険の更新が近く、次からの保険料の知らせが届いた。一か月5560円+5690円がそれぞれ千円近く上乗せの見込みで厳しいが、持病があり、九歳を過ぎていて、必要な出費ではと思う。十月から手続きしていない家畜病院での自費支払いを今月中に清算しようと思う。

年々、正月が短くなってきたように思う。私の今年の正月は二日くらいで終わった。せっかく無職なのだから一か月くらいは正月気分でいたい。ぬるま湯へ浸かりきりたい。数年前のコンビニエンスストアのアルバイトでは正月二日から働いて暇だった。煙草ケースを掃除して、埃にまみれて、蝉の亡骸と謎の豆が出てきて退屈した。そして、百円玉を入れたポチ袋を店長が配り不評だった。金額はともかく、宛名書きが呼び捨てで。何事もいちいち気遣いがなかった。

コンビニエンスストアでは、混む時間ながらふたりで店を任されて、一緒に組むひとと気が合わず、することが多いうえに味方がなくて大変だった。前の時間帯のひとを親切なように思って頼りにしたこともあったけれど、知れば知るほど曲者で、私は円満な人間関係を築くことができなかったのだと思い出して、日々、右手にカメレオンのマペットを嵌めて行き、マペットとのみ私語するなどして凌いだ。人形とだけ会話して凌いだうちに入るかわからないけれど。

曲者は田崎と言うひとで村上春樹を好きだと知り、村上春樹を読もうとしたけど馴染めないと言うと読み方を教えてくれると言ってメールアドレスを寄越して、ではと私のアドレスを教えた。中年と言うか言わないかくらいの独身男性で、メールアドレスの交換は初めて会った日のことで、一緒に組むひとには軽薄に見えて印象を悪くしたかもしれない。一緒に組むひとは曜日によって変わるけれど、女性ふたりのいずれかで、ふたりは同じ弁当屋で働いてもいて、どちらともうまくいかなかった。ダブルワークや弁当屋を馬鹿にしていると勝手に思い込んでしまい、私は私で誤解を解く努力をしなかった。毎度ふたりで陰で私を批判したことを伝えてきて一貫性がなく、私が何をしても気に入らないのだとわかりやすかった(モップ拭きに時間がかかる/雑、ブラインドを開けるのが早い/遅い、コーヒー豆を混ぜた/混ぜない等々)。

田崎は先ずは海辺のカフカを読むように言った。深い深い意味、宇宙の成り立ち、生命の起源、あらゆるものの真実と解釈があると言われたのに、読み終えて何も掴めなかった。筋を追うだけだったと言うと、読み終えたことがすごい、ハルキニストになれると言われて喜べなかった。ハルキニストになりたい訳でなく、考察のヒントくらいもらえると期待していたので、深い深い意味があるのでは?読み方を教えるとは?と思い、ひとりで読むのと変わりなくがっかりした。「ポルノのような描写を読み飛ばせ」だけが教えられた読み方だ。続けてノルウェイの森を読み始めてピンと来ず、半分まで進んでもさっぱりで、読み進めながら村上春樹は合わないと諦めた。田崎はそれを知ると、読むに適した順序があるのにそれを破ったと、勝手に読んで挫折してハルキニストの道を真っ直ぐ進まないことを責めた。私が高熱を出して、急遽シフトを変わってもらったのがバレンタインデイに近く、猫の舌を模したチョコレートをお礼に渡して、海辺のカフカを読んだ後でもあって、私は「殺された猫の舌かもしれない」と言ったのだけど、それを持ち出して私を嘘吐きと言い、手に負えない。悪趣味だ笑えないと言われれば歩み寄る余地はあるけれど、チョコレートであるのは端から互いに承知で嘘に決まっており、随分過ぎてから立腹して発掘する話ではなかった。その後も不倫はよくないと私が田崎に好意があるかのように戒められたり、殺人事件へ触れたメールに「交換日記」「死体」の文言を用いたことから、私が田崎と「交換日記」を「したい」と言ったように受け取られるなど様々あり、こちらはできれば解きたい誤解だったけれど、没分暁と言うのか、関わるだけ誤解が増す感があり、マペットとふたりして困り果てた。わからずに読む本はいくらもあるけれど、村上春樹はわからないので読まぬと決めた。私にひとを見る目がなかっただけの話なのだけど、もやもやと嫌な印象が残り、ノーベル文学賞近辺の読者の集いなどが報じられると面白くない気持ちとなる後遺症がある。

コンビニエンスストアでは労基法が全く関係なかった。レジの集計に違いが出ると弁償する決まりで、代わりを見つけなくては何があっても休めず、勤務前後無給で働く時間があり、規定月働いて有給休暇は出ない。働くことはよいこと、仕事を選ぶなと聞くけれど、どう改善されていても、もう、コンビニエンスストアで働きたいとは思わない。無法地帯で働くのなら賞金首を追いかけたい。
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壺もコップも神である [日々の暮らしで思うこと]

Tuesday, 12th January 2021

月曜日の夜から、Pさんの家に石油ファンヒーターが導入され、犬と犬と私の居場所に設置されて暖かい。ここを居間と呼んだりしたけれど、台所であることに気付いた。ソファとテレビに騙された。Pさんと猫は専ら二階に居て、犬と犬と私は台所及び食堂に寝泊まりしている。寝具は普通にあり、水道ガス電気完備で居心地は悪くない。好きなように食べてと言われて好きなように食べたら羊羹が無くなったと言われるとか、日曜日と月曜日に入らなかったので風呂へ入ったら咳が出るのはそのせいと言われたりという不自由はあるけれど。

また、石油ファンヒーターの説明書を読んでおいてと言われて読むと「石油は室内の冷暗所に置かないと劣化する、劣化した石油を使うと異常燃焼の危険も」とあり、Pさんは玄関先かベランダに置くようなことを言っていたので「石油は冷暗所へ置かないといけないらしい」と伝えると不機嫌になるのはどうかと思う。羊羹と風呂は私の落ち度の可能性があるけれど、石油の劣化は自然の成り行き、太陽の光や熱や雨が悪くはたらくらしいという話で、不機嫌になられてもどうにもならない。早く家に帰りたい。

石油ファンヒーターは私がいなければ不要だったかも知れず、申し訳ない。私の発熱をどう捉えてよいかわからず、COVID-19の流行もあり不安、というのは私もそうだけれど、Pさんは風邪をひかないひとなので、余計に混乱しているかもしれない。数日前にはホタテ貝柱の刺身を食べさせてくれたけど、体調の落ちている感じのときに生ものを食べたいとは思わない。美味しかったけど。私には、帆立貝はバターで焼くくらい、一年に一回食べるかどうかという食材で、貝柱が美味しいとはどういうことか、帆立貝など貝ひもを食べたら終わりであろうなどと思っていた。でも、刺身を食べたら、貝柱最高。びっくりした。ホタテについて、世の中の認識に追いついた気がする。

Pさんが「オムレツを作ろうと思ったけれどスクランブルエッグにする」と言って、オムレツでもスクランブルエッグでも構わない感じだった私はわかったとか何とかと返事をした。するとPさんはコツコツコツとボウルの縁で割った卵の中の全卵をゴミ箱へポイっと捨てて、卵の殻だけ手に残して真顔で、二秒くらいして「間違えた、歳を取るって怖いね」と言った。何も言われなかったり、これが新しい生活様式の卵料理と言われたら嫌だけど、誤りと言ってくれたのでよかった。別の卵が割られてボウルに入れられ、従来通りの方法でスクランブルエッグが作られた。スヌーピーの絵の描かれたハインツのケチャップを出してもらい食べた。美味しかった。

ふざけて遺書のようなものを書く訳でなく、パニック発作か何かわからないけれど苦しくて、もう死ぬのだと思って覚悟して書くけど死なない。犬と暮らし続けることができてどんなにか有り難いけれど、死刑囚のひとだって、それらしく連れ出され、刑場へ行くだけ行って房へ戻されるというようなことを繰り返されれば気が触れると思う。自分勝手に生じる発作や困惑や覚悟で、加害者も被害者も私で、訴え出るべき人権団体もなく八方塞がりで、もう終わりにしたい。全て勘違いとわかりたい。発作から解放されて楽になりたい。風邪の諸症状もなかなか治らず、踏まれたり蹴られたり。

前に、遺書のような書き置きのような紙切れを手帳型携帯電話ケースに入れていて、マツモトキヨシで会計時にレジへひらひら広がりながら落ちて気拙かった。いなくなってから読まれるつもりの、犬をよろしくとか、骨は海へ撒いてほしいなどとあるのが易々と読めて。

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日暮れのサメハダテヅルモヅル [日々の暮らしで思うこと]

Monday, 11th January 2021

未だ、Pさんの家で過ごす。日に一度は帰宅するものの一時的に過ぎず、ホームシックは続く。11月から続いた気分のよさは消えたかのようで、胸とも頭とも身体とも決められぬどこかに涙や悲しみが溜まっていく感じがある。昼過ぎに犬と歩いたように思うものの写真の一枚も撮っておらず曖昧だ。歩数計の数字だけが昼過ぎに動いた裏付けである。今日のことを思い出そうとして、別の日のことを思い出す。

犬と歩いていると、大きな声で「おはよう、おはよう」と聞こえた。声のほうを向くとこちらへ背を向けたひとが無人の部屋へ向かって「いやだ、おはようじゃないわ、こんにちはだわ」と言ったあと、振り向いて私たちに「こんにちは」と声をかけてきた。平野レミを黒髪にしたような見た目の、ひとりで賑やかな感じのひとだ。おはようも私たちに言ったようで、部屋の時計を見てこんにちはと言い直したらしかった。じょうろや移植ごてを手に取ったり置いたり、頻りに動くけれど、実際には何もしていないように見える。軒先に一抱えはある大きな丸い植物のような何かがふたつ吊り下げられていて、エアプランツであれば見たことのない異色なもの、随分立派なものに見えた。エアプランツは世話が少ない植物のように思い、手に入れてはどうかと思うものの、小さなものでも高額な印象がある。少し見栄えがすると更に値は張り、値が張るほどには見栄えせぬ気がして手が出ない。これほど大きなエアプランツがあったのかと「これは何ですか」と確かめるとコキアだった。言われてみれば所々が赤い。抜き取った根を上に吊るしたふたつ、植物のような丸い何かの正体はコキアだった。干してホウキをつくるそうで、コキアというとどこかの丘一面に植えられた景色を思うけれど、ホウキギという名もあって、ホウキの材料になるらしい。ホウキを使うことそのものが少なく、自分で作ってみることなど思いもしなかったけれど、この落ち着きのないひとはそうしたことを思いつくひとでもあるのだった。「これは何ですか」など教本のような質問は、個人的なところへ踏み入り過ぎずに会話が成り立って重宝する。場が持つばかりか、物を知らぬ私には知る機会も得られ、思うより使い道がある。

私自身に成人式へ行きたい気持ちがなかったので、行くことのできない悲しみがわからない。自分では十歳で大人になった気でいて、それから十年して大人と認められても遅い。交友関係の広い人気者であったり、晴れ姿を見てほしい親類縁者でもいれば事情は変わったのか、それでも自治体に祝ってもらわなくてもと思ったか、わからない。私は振袖を買ったり借りたりする経済力がなく、別の余所行きを着てとも思わず、記念写真を撮っていない。無くて困ることは一切ないけれど、面白写真を残す機会を一回逃したとは思う。振袖や余所行きは着られるときに着て、写真を撮れば記念になるかもしれない。それよりほか、何も思いつかない。

写真や映像は忘れたようなことも記録しておいてくれる。食べてしまって、古くなって、捨てて、失くしてなど様々な理由で目の前から消えたもの変化したものの、食べる前の形、新品の見た目、失う前の姿形を見ることができる。ああ、こんなふうだったと思い出したり、こんなことがあったかしらと不思議に思ったりする。撮影してデータで残してよく、写真にしてもよい。拙宅の菓子の缶にあった古い写真の束を繰ると、どう見てもテレビ画面を写したように見える原辰徳の写真があって、原辰徳に思い入れのある身内や知り合いがおらず、何のための写真かわからない。旅行の写真に紛れていたので旅館のテレビを写したのだろうかと想像するけれど正解はわからないままだ。こんな謎を未来に残すのも一興に思う。

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パイ生地を概日時計回りに [日々の暮らしで思うこと]

Sunday, 10th January 2021

朝、酷く寒く、天気予報を見ると寒さが続きそうで冬眠したい。午前七時前の気温がマイナス五度で、これまでの冬にこうも冷える日があったろうか。夏の暑さも冬の寒さもおかしい気がする。地球が終わるものと思う。緊急事態宣言に沿い、混み合う土日を避けて平日に私が食料品の買い出しをする計画が、昨晩の発熱で予定が狂い、Pさんが犬の散歩のついでに割高スーパーマーケットで買い物した。逃亡脱走を防ぐ策か、Pさんはファンタプレミアピーチを買ってきてくれたうえに、昼食には穴子寿司と揚げイカ、夕食には海老料理を出してくれた。発熱のひと向きのメニューでない感じは置いておいて。揚げイカはエンペラが好きなのだけど出来合い惣菜の容器にひとつも入っておらず、ふたつの皿に分けるPさんは代わりにゲソをたくさんくれた。エンペラほどではないけれど、ソフトな胴の輪っかに比べ噛み応えがあってよい。安静を続けつつ、匂いも味もわかり続けている。

ファンタプレミアピーチの検索予測に「まずい」とあったけれど美味しく飲んだ。プレミアグレープの合わなかったPさんも美味しいと言い、まずいと言うひとは食生活の貧しい、味のわからないひとじゃないかと続けた。私はプレミアグレープも美味しく飲んでいて、日頃質素な食生活で、何とも返事をしかねる。好みの問題だと思ってはいる。

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同居人が釣ってくるイカは新鮮で、スーパーマーケットで売られているものとは質が違った。甘みがあって噛み応えもあって美味しい。ヤリイカとアオリイカが特に美味しく思う。同居人はヒヨコやタヌキや鳩を模した菓子を気の毒で食べられぬ情緒なので魚もイカも捌くことができない。それで私は、イカを切ったり皮を剥がしたりということを覚えたのだけど、始めは切るイカ切るイカ、プラスティックが出てきてどういうことかと謎だった。軟甲という、貝殻の名残りらしい、イカの一部とわかって安心した覚えがある。小学校四、五年生あたりにフナやカエルの解剖があったと思うけれど、解剖前の学校から解剖後の学校へ転校して、解剖をせずに小学校生活を終え、運がよいように思った。しかし、油断大敵、家庭に釣り人がいると、出刃包丁で格闘、頭を落とした魚へ肘まで突っ込んで内臓を引き摺り出すなど、事件並みの解体をせざるを得ない状況が、日常のうちに有り得るのだった。

食べるために調理は必要だけど、解体ショーは好きになれない。トリやウサギであればしないことを魚にならしてよい感じなのが理解できない。苦情があれば食文化やら食育やら持ち出す魂胆だろうと踏んでいる。随分前に、曜日ごとに和食、洋食、中華と分かれ、専門家が料理方法を教えるテレビ番組があった。中華料理は中国のひとが教えていたと思う。ある時、魚の頭を掴んで持ち上げ、エラから尾にかけて粉をまぶすと、頭を掴んだまま油の入った鍋で揚げた。魚は口をパクパクさせながらフライになった。狂気の沙汰なのだけれど、活けづくり生きづくりと言って刺身をつくることと何ら変わりなく、調理法、盛り付け方のひとつと言われればそれまでか知れず、人間は気を遣う必要がないと思ったところにはとことん遣り尽くして何も思わないことがあるから気をつけたい。揚げる側にしろ、揚げられる側にしろ、見る側にしろ。

解剖を避け、東京都大田区→地方→東京都港区→地方のように小学校を移ったが、地方へ行くと気取った都会人、都内に行くと地方の山猿のように言われ、「私は私、同じひとりの人間でありますよ、思い込みの民よ」と思ったりした。都内に住むひとは都内だけが人間の住めるところと思っている節があり、地方へ行くたび未開の地へ行くかの心配をされた。大田区で私の住んでいた辺りは長閑さがあり、そうそう都会な印象はないけれど、社宅のようなものに住んでいた私たちを除くと裕福なひとたちが優雅に暮らしており、転居先を事前に見に行って、思った以上に地の果てに見えて不安になりはした。

不安になりつつ、初めの転校は悪くなく、担任が変わって成績表に「動作が鈍い」と書かれなくなった。担任は同級生たちからカオルちゃんと名前で呼ばれる男の先生で、一年くらいでまた転校したためか同級生をあまり憶えていないけれど、先生のことは憶えている。先生が盲腸か何かで入院したときには直ぐに同級生と見舞いに出かけた。この時、花は花でも鉢花は見舞いに使えないと知った。先生に勧められ、クラス委員に立候補したりもした。同級生に「この間、授業中に泣いたからダメだと思います」と言われ、そこで悲しくなって泣いてしまい、ほらダメだとなって落選した。ダメと思われているのに立候補して失敗したと言うと「やってみようと思ったことが、やろうとして手を上げたことが立派なんだよ」と慰められ「やる気になれば何でもできる子」とも言われた。先生に言われると何となくそんな気持ちがしてきて、褒めて伸ばす手法だったのかもしれない。頭が痛いと保健室で寝ていると、どれどれと先生が自分の額を私の額にくっつけて「熱はないみたいだよ」と言われてほっとした。父といるかのような穏やかさがあった。早く教室へ戻らなくてはと思った。

ある時、同級生のみどりちゃんと喧嘩した。のんちゃんと私はみどりちゃんを憎んだ。放課後、みんなが帰ると、みどりちゃんのリコーダーを持ち出し、吹き口を金魚の水槽へ入れてかき回して元へ戻した。持ち出すまではみどりちゃんに復讐をという気持ちでいっぱいだったけれど、元へ戻すとみどりちゃんがリコーダーを使ったらどうしようという気持ちに変わっていた。のんちゃんも同じだったかもしれないけれど、お互いにそう言い出すことができないまま下校した。翌日、午後には音楽の時間があった。のんちゃんと私は相談もせずに四時間目の授業中に、みどりちゃんのリコーダーへしたことを自白して、汚れたリコーダーが使われることはなかった。みどりちゃんに謝り、許してもらった。こんなことがあれば、先生に何か言われた筈だけれど何も憶えていない。私は先生が好きだった。自分勝手なことに、みどりちゃんに悪いことをしたという思いより、先生をがっかりさせた、先生に嫌われた、そんな気持ちが強かった気がする。

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ソーダと塩のナトロン湖 [日々の暮らしで思うこと]

Saturday, 9th January 2021

大晦日に125kmまで走ったあと、新車ニーチェを動かしていない。動かさないクルマも動かしていない私もナマる気がして、昼前に犬と犬とPさんを乗せて隣町の農産物直売所へ行った。青森県産林檎ふじ二個入税込338円とガーベラ5輪@税込350円×2、合計1038円をauウォレットで払った。続けてカインズへ寄り、染髪剤ビゲンスピーディーカラー@税込398×2、合計796円をauウォレットで払った。そのままガソリンスタンドへ行って、ニーチェに初給油、レギュラーガソリン@123円を24.39L、3千円分入れて現金で払った。残り2目盛の燃油計が8目盛、概ね満タンとなったようだ。

ガソリンスタンドはいつも行くセルフスタンドで、相変わらず店員が無闇に話しかけてくる。売りつけたいものがあるならまだしも、乗せている犬を指して「白いワンちゃんの名前って何でしたっけ?」などと一度も教えたことがないのに教えたことがあるかの口ぶりで、マスクの中の口をほぼ閉じたまま早口で「バビロニアデスマスクメロンパンナコッタ」と嘘を答えると、一度はダッとかバッとか聞こえたことを繰り返そうとして続きが出ず「へえ」と聞き取れたように態度を改め「茶色いワンちゃんは?」と懲りずに聞いてくる。同じように「モンゴリアンアンガーマネージメントメントール」と嘘を言うと今度は直ぐに「カッコいいですね」と言ってきて暖簾に腕押し、カッコいい訳がない。せめて「略して?」くらい言ってくれれば会話した感が出るであろうに全く気が利かない。何のために嘘の名を用意していると思っているのか。Pさんを苛立たせることが目的で話しかけたなら成功で、鼻を出したマスクで話しかけてくるなど感染予防意識が低いと怒っていた。

13時頃帰宅、100分強、18kmの旅だった。ガーベラを自宅に飾る。10本のうち2本の茎が花の近くで折れていたので、2本は小さなコップに挿した。8本はまとめて大きめの器に。硬いセロファンで包んで売られているので茎の折れは帰宅するまでわからず運試しのようなもの。何にしても好きな花を好きなだけ買えて気分はよい。飾り終え、足りなくなった犬のごはんやおやつを持って、Pさん宅へ。Pさんのクルマへ乗り換えて弁当屋へ行く。先の帰り道に弁当屋はあったものの駐車場が入れにくくニーチェで寄るのは難しかった。何かいるか聞かれ、コロッケをひとつ頼んだ。

Pさんの家へ戻り、農産物直売所で買ってもらった餃子と弁当屋のコロッケと直売所で買ったからとくれたいちご大福を食べる。口福堂の大福は要らない、親切にでも頼まぬ限り買わないでと断ったけれど、他はまだ断っていないので勝手に買ってくれる。大粒のいちごが小豆の甘さに丁度よく、いちご大福を思いついたときの期待通りであろう酸味と甘味の組み合わせで美味しかった。餃子は小ぶりで食べやすいものの特別美味しいことはないのに何故かたまに食べたくなる謎の味。マタタビでも入っているのだろうか。コロッケは冷凍食品の味だけど食べたかった味。外側がサクッとして中身が心持ちやわらかくて甘めで、型抜きのきれいな楕円形。

餃子は同居人のつくる餃子が好きで、包んでしまうと味が落ちるなどと言って、私が帰宅してから包んで焼いてくれるのだった。市販の気に入った皮でつくってくれる餃子はパリパリしてジューシー、いくつでも美味しく食べられて、一袋で売られる皮の数が決まっていて食べ過ぎずに済むという具合。これに負けまいとすると皮を自家製にするくらいしかなく、私がつくる皮など餃子と言うより小籠包で、どうしたって同居人の餃子には勝てぬのだけど、美味しく食べられれば勝たなくたって全く構わない訳で。と、暫く買わずにいたら気に入っていた皮が売られなくなっており、もう、自宅で美味しい餃子がつくられることはないのかもしれない。never ever.

カインズでPさんが蓄熱毛布的なものを二枚買ってくれていて寝具に追加された。以前、蓄熱と書かれて売られていたものとそっくりなのに、蓄熱の表示を無くしたような気がするそうで、珪藻土バスマットの一件があり、また、何かやらかさぬよう蓄熱の文字を無くしたのではと見てしまう。一度失った信頼はなかなか戻らないばかりか、不信感さえ抱かせる。間に合わせのものを買うには手ごろな価格が有り難いにしても。

Pさんは、珪藻土バスマットの返品返金で食品用ラップ30cm×100mというのをお詫びの印か何かにもらっていて、100mもあるので長々使わないと使い切ることができないのに、これが今ひとつ使いにくい。売り場で見たことがなく、カインズのPB商品だと思い込んでいたけれど、リケンファブロという会社の国産品だった。自社製品では気が引けたのか、それより安く仕入れたのかわからぬが、耐熱130℃と書いておきながら電子レンジへ入れるとくっつき合って剥がれず、冷蔵庫へ入れても剥がれが悪い。ぐにゃーっと引き伸ばしたところへ指を突き刺し非文明的に引きちぎっている。粗品としか言いようのない粗品で、と言うか嫌な気持ちにすらなって、粗悪品と呼びたいかもしれない。

Pさんの家ではタイマーでテレビがついたりして、見る気がなくても見てしまう。液体洗濯洗剤が殆ど水という宣伝を見て、何?何を?今なんて?となった。そんなの、あんまりだと思う。どういうことだよ。今までの宣伝をゆっくり時間をかけて再放送してもらい、改めて話を聞きたい。

19時過ぎに37.7度の発熱があった。身体の怠さや痛みは然程なく、咳もそう出ず、喉が少しだけ痛む。それでも熱が出たからとPさんには帰宅を先送りすべきと言われてしまった。こうなるとキリがない気がしてくる。最初の熱から一週間安静にして、もう家へ帰るつもりでいた。犬もひともいない自宅は寒々と静まり返り、廃墟めいてさみしい。早く帰り、犬と人間の住処らしく整えたい。

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美しくて白い牡牛の波乗り [日々の暮らしで思うこと]

Friday, 8th January 2021

Pさんの家で寝起きして家に帰りたい。昼間、家へ戻り、花の水を換えたりして心が随分落ち着く。旅行から帰ってウチが一番などという台詞を冷めた気持ちで聞いていたけれど、今は心底わかる気がする。それでも、すっかり体調がよくなるということがなく、弱気が続いてもいて、書き置きを書き直したりしている。従前、犬の面倒をみてほしいと書いてきたものを細分化して、薬はこのようにとか、保険の請求はこうとか書いてみて、誰がこれを引き受けるか疑問である。死ぬ気でいた五年前なら犬も五歳前で、新しい環境に順応できたかもしれない。今は九歳を過ぎて大きな変化は厳しく思う。犬と一緒に過ごしたい、そのことのみで生き延びるべきと思う。私が思って叶うことか知らぬけれど。

カローラの担当者から書類を作りに来店をとの電話があり、一週間くらい前に発熱したけれど行ってよいか聞くと確認したいとの返事で、次の電話で担当者がこちらへ来ることになった。担当者が郵便受けへ書類を置きクルマで待機、私が受け取り室内で署名捺印後郵便受けへ戻し室内へ、担当者が郵便受けから書類を回収という直接会わない方法で執り行う。書類そのものには双方で触れるため気になるもマスクの着用、手のアルコール消毒にて済ませた。カローラからの作成書類には朱肉と押印ゴムマットと年賀ふたつが添えられており手抜かりがない。これで一か月点検の日程調整も済めば万端整うものの体調次第になるかと思う。

小学校へ上がったかどうかという頃に夏祭りでスイカ割りをした。祭りの格好をした大人に手拭いか何かで目隠しをされ竹刀のような棒を渡された。前を見ると目隠しがズレていてスイカが丸見えだった。祭りのひとに目隠しがズレていますと言って二回直してもらったけれど、まだ前が見えて、もう一度見えますと言うと面倒になったのか、そのままやって大丈夫と見逃された。見えるスイカを割らないのも難しく、棒でスイカを叩いた。棒は弾かれスイカは上手く割れなかったけれど、当たりは当たり、クジを引かせてもらった。クジで引き当てたのは大人が履くであろうサイズの踵の高い白い靴で、いつか履くときが来るまでしまっておこうと父に言われて箱ごと靴箱の隅に置かれた。大人になったら履く靴のあることが楽しみだった。靴は転居や何かで履くときが来る前に有耶無耶になった。

その踵の高い靴を失ったからということではないが、踵の高い靴を殆ど履かない。多くのことを自己流で凌いできた。社員として働いたのは製造業の品質保証部門で主に外注先とのやり取りであるが名刺を持たされるくらいにはひとと会う機会があった。それでいて化粧せずに出社する日が少なからずあり、お茶くみを拒み、ひとりで女性社員の処遇改善を求め、頑なであった。兄弟で働くひとは数組いたものの、夫婦で働くひとはなく、結婚すると一、二か月のうちに女性が辞めていった。同居人と私が婚姻届を出すと、やがて私が辞めるに違いないと思うひとも多くいて、辞めないでいると嫌がらせがあった。上司に理解があったことと就業規則を盾に乗り切った。今では結婚後も辞めずにいるひとが普通にいて、私が苦労して切り拓いた道だよと勝手に思う。今していることに威張れるものが皆無で許されたく。

中途半端な田舎へ引っ込んだせいか、祭りなどが貧弱である。山車が無いのか、引くひとが無いのか軽トラックの荷台で太鼓を叩き、さっさと通過して行く。うるさくなくて結構だけれど。一日中どんどこどんどこ太鼓の音を流していた至近のパチンコ屋が太鼓の音を鳴らさなくなった。太鼓の音を流し続ける理由も、鳴らさなくなった理由もわからなかったけれど、COVID-19警戒下にあって大っぴらに開店していると嫌がらせがあると知り、密かに営業しているつもりかもしれないと気付く。ということは、どんどこ鳴らして開店中と知らせていたとも考えられ、スピーカーを使いながら原始的なお知らせを行っていた可能性が出てきた。狼煙を上げるのと変わりなく、そのようなものを合図にと面白く思う。合図を聞いた合図に、客の皆さんには、石で出来た棒状の武器を携え、片方の肩紐だけある毛皮風チュニックなどで通ってほしいと願う。
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ニャスビシュのラジビウの城 [日々の暮らしで思うこと]

Wednesday, 6th January 2021

Pさんの家で寝起きして、もうよくなった気がして家へ帰りたい。咳と微熱がまだあり、Pさんは心配だと言い、何も起こらないと思っている私にも不安はあって、Pさん宅に居残る。それでも家へ帰りたいとは強く強く思って、場所なのか、暮らし方なのか、家そのものなのか、他の何かなのか、わからないけれど、何かが待っているようで胸の張り裂けるかの思いがする。帰巣本能だろうか。幼い頃を過ごした辺りを懐かしむけれど、私は疾うに帰る場所、居るべき場所を別に持っていた。

小学校一年生から三年生まで、成績表の通信欄にはいつも「動作が鈍い」と書かれていた。愚図愚図して間に合いそうにないからと、母が手を引いて連れて行ってくれたりもして、この学校へ通っていたときは無遅刻無欠席無早退で、様々な流行り病にいち早く罹っていた保育園児のときからすると大きな進歩なのだけど「動作が鈍い」とは。字面の悪さは言うまでもなく「ドウサガニブイ」という響きがもう致命的な欠陥に聞こえる。知らずに愚図愚図してしまうらしいことや給食を食べるのと走るのが遅いとわかっていたけれど、どうしたら早くできるのかわからない。きちんと畳む、静かに閉じる、大きい声で言うなど明確な解決のない「動作が鈍い」には、いつも続けて「頑張りましょう」とあって、救いがなかった。鈍いの呪い。転校して担任が変わるまでずっと書かれ続けた。

書いていたのは学年主任のベテラン教師と言われる担任で、厳しい指導で信頼を得ているひとだったけれど、一年生の家庭訪問の時、親の前で態度が違い失望した。椅子へ座った彼が私を膝へ乗せて気分が悪かった。普段は呼び捨てするのをちゃん付けで、あからさまな猫撫で声で、乱暴さ横暴さは少しも見せず、インチキだなと思った。その場で父にいつもはこうではないと言い、父は親の前でその子どもを大切に扱うのは礼儀かもしれないと言ったように思う。担任がどういう顔で会話を聞いたかわからない。聞いたなら、気拙かっただろうか。これは多くのひとが立派だとか感心だというひとを必ずしも信用できないと知る初めの経験だったと思う。顔も声も思い出さないけれど、牛がウッシッシー、題が無いのは台無し、選挙に行かないのはキケンなど彼の発した駄洒落は忘れていない。わからないことは多いけれど、6歳でもいろいろ考えることができる、子どもだからと何もわからないというような扱いは理不尽と思い、そういう大人にならないようにしようと思っていた。自宅の畳に寝そべって或いは校庭の隅に植わる百日紅の木のコブへ腰かけて。

私は読んだり考えたりするのが好きで、小学生向けのクイズやなぞなぞは大抵答えられた。読み間違うと交代というような朗読をすると私のあとのひとには順番が回らなかった。父以外の大抵のひとが苦手で、ひと言話すのにいちいち苦心が要り、運動能力や体格は同級生に劣り、忘れ物が少なくなく不器用で、学校生活には苦にせずできること、得意と思えることが必要だった。そうしたものは父と話すことと本を読むことでどうにかなる気でいた。国語の時間に「このとき主人公はどう思ったでしょう」と問われ、答えとなりそうなことを想像して答えると「参考書の模範解答と全く同じでカンニングである」と同級生に咎められた。どう思ったかを考えず、正答を予想した答えで、家では勉強をする習慣がなく、参考書は買ったことも触ったこともなかった。けれどそう言って潔白を主張せず「前もって勉強して覚えたことを答えられないならテストは全て白紙で出さなくてはならない」と理屈を捏ねた。カンニングカンニングと騒いだひとは皆黙り、反論するひとはいなかった。どちらを言ってもよく、どちらにしても生意気だが、理屈を選び、潔白を棄てた。何かと自爆ボタンを押しがちである。考えも無しに。時には考えに考えて。

これをすると母が困ると知っていてわざとせずにはいられず、真っ白な日傘をドブへ投げ入れたり、整えられたシーツを皺くちゃに丸めたりして、また、窓の外の遠くに見える木が夜になると家へ向かって歩いてくるようで目が離せず、暗くなると窓から一点を見続けるなどもあって、母は私をどう扱ってよいか困り果て、知り合いや友人や姉妹や弟の妻に電話で相談することがあった。あなたは二歳でアルファベットを読んで、小さな子どもに詰め込み過ぎと周りから言われて苦しかったなどと、度々責めた。教えないものを勝手に読んだというお叱りなのだけど、カンで読める訳がなく教えられたに決まっており、教えずに読むほうが怖い。後になって、遠回しに賢いと褒めたのかなと思ったりもした。賢くも何ともないけれど。私が乳児のときに雪村いづみに抱っこされたことは嬉しそうに何度か言っていて純粋に自慢の話に聞いたけれど、雪村いづみというひとを知らなかった。調べて、自慢に思うであろうひとのように思い「今はバラ色が好き」という曲を聞いた。詞を谷川俊太郎が書いた曲だ。優しく丁寧に歌っていて人柄のよさを感じ、このひとに抱っこされたことがあるのかと心が和んだ。何も憶えていないけれど。

Pさんの一番古い記憶は保育園のベッドで目覚めたところらしい。ベッドの柵越しに世界を見たところから人生が始まったように聞いた。三島由紀夫は産道を通ったときの記憶があったと聞いた気がするが、映画「ブリキの太鼓」の話だったかもしれない。しかし「ブリキの太鼓」には成長を拒否、乾いた太鼓の音、ヒステリックな叫び声、唾、砂と断片的な記憶しかなく、産道で思い出す理由がわからない。

私の一番古い記憶は入院した母を父と見舞いに行ったときのものだと思う。母がPさんの出産で入院していたときで2歳3か月のことだ。そう長くない筈だけれど何日かぶりに母と会うのが恥ずかしく、尻込みして近づけず父の手を握って離さなかった。それだけ憶えている。Pさんが生まれていたのかどうかわからない。一番古い記憶の中には父と母と私だけがいる。
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流刑地の密度の高い闇 [日々の暮らしで思うこと]

Tuesday, 5th January 2021

Pさんの家で寝起きした。苦しくて苦しくて苦しかったのに、何事もなく目が覚めた。熱は下がったように思うも「体温は何の参考にもならない、あってもなくても直ぐに動き回るのはよくない」とPさんに言われ、LINEで地域のコロナサポートから問われたときだけ体温計を使うことにする。体温計は何年も前に買ったものでいつまで使えるかわからない。また、五十代でCOVID-19に感染して亡くなった国会議員のひとは平熱のときもあったそうで、発熱が何に依るにしてもPさんの言う通りにしておこうと思う。ひとりでどうにかなりますと言える感じがない。死ぬにしてもここなら発見が早いというようなことしか思いつかず、未知の病と持病へ手玉にとられ弱気だ。

昼間、Pさんが犬と犬を散歩に連れ出してくれた。犬が分離不安だと思っていたけれど私がそれで、犬がいないと酷く不安だ。月曜日、まだ自宅に居るときにもPさんが散歩へ連れて行ってくれて、いつもの部屋にひとりでぽつんと待っていて淋しかった。Pさんの家だと孤独感は少し和らぐ。多分、この場所に居る犬のイメージが無いからだろう。買い物や用事を済ませると言って出たPさんは三時間近く帰って来ず、帰る寸前まで何の連絡もなく、ひとり待ちながら、どうなってるの?と勝手に声が出た。Pさんは唐揚げ丼を買って、犬と犬を連れて戻った。唐揚げ丼は油でギトギト且つボリュームがあった。受験日の朝食にかつ丼を出される受験生の心持ちで食べた。美味しかった。夕飯はポトフで有り難かった。

茶犬がPさんの熊のキーホルダーに心奪われ、じっと見つめ続けていて気の毒に思い自宅からウサギの玩具を持って来たけれど、熊がよいらしくウサギには見向きもしない。渡したところで茶犬がするのは激しく噛み、中綿を引き出すなどの残虐な仕打ちと判っており熊は渡せない。

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中学二年生からの友人は成人前後まで十年近く付き合いがあり、私にとっては長く続いた友人だ。浅野温子似の友人は名がサクヤであれば、皆からサクと呼ばれていたが、私はどうしてもそう呼べず、サクヤさんと呼んでいた。もうひとりをその名でクルミ(仮名)さん、与ひょうを熱演したひとをその名でコヤギ(仮名)ちゃんと呼んだ。何故ふたりがさん付けでひとりがちゃん付けなのか、自分でもわからない。三人は互いを呼び捨てし、私をちゃん付けで呼んだ。名前を呼ぶような日常の些細なことがすんなりできず、自分に苛立ったものの、ひねちゃんはそれでいいよと許された。クルミさんとコヤギちゃんは何代もその土地に続く家のひとで、広い敷地に建つ大きな家に暮らしていた。サクヤさんの家は彼女が高校生のときに両親が一軒家を建てた。要は実家がどこにあるかはわかっており、連絡の取りようがあるかもしれないということ。私は探偵でも雇ってもらわないと見つからないので、待っていては途絶えたままになる。思い出だけで充分と思うものの、今、どうしているのかなと思うことはある。

中学三年生のとき、サクヤさんとふたりで神社で話していた。特に用事もなく会ったと思う。鉄棒やブランコに触れ、手が鉄臭くなったとか、あそこの木は雷が落ちて大きな穴が空いたとか、そんなことを言い合って退屈しなかった。母は少しずつ統合失調症の症状が出ており、Pさんは長く学校へ行かずにいた。私は抱えているものを重く感じ、逃げ場の無さに疲れていた。それでどういう訳か、父が自殺したことを打ち明けた。進行中のことより完結したことのほうがよい、という判断はあった気がする。サクヤさんは「何だ、そうだったんだ」と言い、そんなの何でもないじゃんと続けた。あまりにも何も言いたがらないからもっと悪いことがあったかと思ったとも言って、もっと悪いこと?とオウム返しする私に「強盗殺人で刑務所に入っているとか」と答えた。父が死んでしまうより悪いことなどないよと思いながら、この軽い返事は私には途方もなく心地よかった。ずっと口止めされていた父の自殺を初めて打ち明けて気が楽になった。

サクヤさんには歌手になりたいという夢があった。私の親戚の家が五反田かどこかにあったとき、ふたりでそこに泊まって、オーディションを受けに行ったことが二回あったと思う。親戚に泊まるから同行したのだけど、オーディション会場へ入れるのは受験者のみで、一緒にいてと頼まれ私もオーディションを受けた。付き添いが合格してしまったという話は何度か聞いたように思うけれど、私の場合そうした奇跡は起こらず順当に不合格となった。サクヤさんは目鼻立ちがはっきりしていて、簡単に言えば美人で、歌は意外性のある裏声使いで、歌唱力も個性もあって合格してよい感じなのだけど、何次予選かで不合格となり、テレビで放送される本選へ進めなかった。どうも、審査員のレッスンを受けていたり関係者の親類縁者など、コネのあるひとが優先的に出る感じで、何次予選かになって現れるシード権を持つひと、予選に出ずひとっ飛びに本選へ出るひとなどがいた。そのひとたちが優れているなら仕方ないと思えたが、そうではなかったので、実力を試す場所ではなかったのだと思う。

サクヤさんは歌手を諦めたあと、商業高校を出て、小さな会社で製図の仕事に就いた。酷い癖字だったのが、短い間に読みやすい字に変わって見違えた。勤務中、図面から目を上げて窓の外を見ると、その瞬間に奥に見える建物の屋根全部が一遍にずずずずずーっと滑り落ちて笑っちゃったと聞いて私も笑った。そんなことある?と聞かれて、あったんでしょと答えて楽しかった。朝7時前に電話してきて「馬刺しとタコわさだったらどっちが好き」と聞くだけ聞いて続きがないとか、同世代の見た目のよい心から好きなひとと付き合いながら十二歳上の同僚ともずるずる関係を持つなど予測不能で危なっかしい。中学から喫煙し、高校生になると万引きやキセル(電車賃の誤魔化し)を繰り返した。見知らぬ男性とホテルへ行って乱暴されそうになったこともある。泣いて嫌がったら「俺はやめるけど、他の男ならやめない、こんなことは二度とするな」と帰してもらった。馬鹿をすると思いながら、彼女のことが好きだった。中学生のとき、彼女と私は詩のノートを作っていて、お互いに書いたものを見せ合っていた。彼女の書いた詩に「あたしは小さな魔法をかける / だって、小さな魔法使いだから」とあって、何か、たまらなかった。無力感を覚えつつそこへ立ち向かう彼女そのものに見えた。何をしても彼女のどこかに小さな魔法使いがいるという思いは消えなかった。

クルミさんは農業高校を出て、新宿の百貨店に就職した。農業高校からそうした進路があるのは意外だったけれど、裕福な家柄なんかも加味されたかもしれない。十歳くらい上のひとと付き合って「処女を奪われた」とサクヤさん経由で聞いた。被害者かよと思い、奪われたと言ったのかサクヤさんに聞くと一字一句違いなくそう言ったらしかった。クルミらしいよねと言い、サクヤさんは、あれは多分、結婚すると思うよと続けた。その後、クルミさんがどうしたか知らない。コヤギちゃんは前に書いたけれど、学校を出て大手企業に就職した。きっと私とは縁を切りたいのだろうと思い、連絡をしなくなった。

私はアルバイトで入った会社で社員となり働いた。二部上場がどれほどのものかわからないけれど、勤務先にはそれなりの自負があり、入社時には興信所が身元を調べたと聞く。どういう訳か採用となり、仕事に遣り甲斐もあった。一生働ける仕事に就くのは中学生のときから考えていたことでもあって、定年まで頑張りたかった。中学生を過ごしたところを離れ、姓が変わり、具合のよくないときを除けば安穏と暮らしている。思い出されることさえある気はせぬけれど、安否を聞かれれば、私はどうにかなったと答えたい。
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狐の火ともし狐の絵筆狐の手袋 [日々の暮らしで思うこと]

Monday, 4th January 2020

気付くと私鉄と書いてしまうけれど、誰も困らないように思われ、今後も書き続ける気がする。JRでなければ私鉄と言っていてよい気もする。幼い頃、バスで出かけるのが大森で大森の隣の駅が蒲田だった。もしかすると、蒲田へ直接行くバスがあったかもしれない。小学校へ入ってからだった気がするが、ある日、年上の友達何人かと蒲田の縁日へ行くことになって、家へ帰ると母がいなかった。私は何も考えず抽斗の「おかあさんの財布」と呼ばれるものから五百円を取り出して出かけた。バスに乗ったのは確かで電車に乗った憶えがない。運賃をどうしたかも曖昧だ。親の財布から金を盗むくらいなので無賃乗車したかもしれない。小学校へ入ったからと切符を買おうとして背が足りず、通りがかりの大人は小学校へ入ったら買えるようになるなどと度々無責任に言った。もう入っているのに。そんなサイズ感で大人の脇に付いて行けば難なく無賃乗車できたと思う。小学生のひと群れとして誤魔化して乗ったかもしれない。そうして子どもだけでいつもより遠いところ、蒲田の縁日へ行って、楽しかった。五百円で、火薬部分が何色かに色分けされた、多分、虹の七色だったと思うマッチと用途不明な感じの1mくらいの金色の鎖とあともうひとつ何かあった気がするけれど、思い出せない、兎に角要らないものだけ買って、何故か楽しかった。縁日に付き物の屋台の食べ物などは何も買っていない。家へ帰ると父に叱られて、暗くなるまで帰らなかったからだと思ったら、それに加えて黙って遠出したこと、おかあさんの財布から五百円を持ち出したこともいけないらしかった。そう叱られるまで勝手にお金を持ち出したことはなかったけれど、持ち出してはいけないと知っていてしなかった訳でなく、偶々、機会がなくてせずにいて、蒲田行きで叱られて初めていけないことと知った。「おかあさんの財布」とは呼ぶものの、家族の食べ物や使う物を買っていて、みんなのお金が入っていると思っていた。こんなことがあって、小遣いや何かが決まったのかもしれない。初めての小遣いは月曜日から土曜日が三十円で日曜日が五十円だったと思う。大抵のものを好きに買ってよかったけれど、酷く甘い食べ物と毒々しい色の食べ物は買ってはいけないと言われた。甘い物はお腹に虫が湧く、毒々しい色の物は毒だという説明だった。そう教わると、威張って言うことではないが、見張られずとも約束は守った。

かつての友人マキちゃんは女優志望で劇団に入り、三年やって芽が出なかったら家に帰って結婚しろという親との約束を守って夢を諦めた。レギュラー出演の番組があったと聞いて、後年、再放送の刑事ドラマを何話か丹念に見たけれど、一切映っておらず、出演者として名前が表示されることも無かった。レギュラー出演の女性はふたりだけだったのに、撮影完了の飲み会にもうひとりのひとしか呼ばれず辛かったと聞いたときは意地悪な話のように思ったものの、放送されたものを見ると、つくったひとたちからするとエキストラだったのかもしれない。彼女が運転していたというミニパトも何話か見て数秒しか映らなかったので。そうとは知らず、社員食堂の昼食で、そんな有名人とごはんを食べるなんてと言ってしまい、考えようによっては嫌みなのだけど、マキちゃんは大したことないから気にしないでと言い、にっこり笑った。素直に喜んでいたと思う。自分の美しさを利用して金持ちと結婚すると言う計算は好きになれなかったけれど、そういう卑屈でないところは好きだった。

女優というのは看護婦みたいな感じで、もう使わない言葉かもしれない。女優だから顔は傷つけないで、というような台詞は多分前世紀のこと。それでも、俳優とか役者と言い換えながら女性はまだ美しさ若さを求められがちで、男性は見た目が今ひとつでも歳をとっても個性とか雰囲気で認められやすい気がする。何でこのひとはこんなに活躍をと疑問に思うと身長が高い。女性に比べると男性のほうがザルの編みが細かく何かしらで残る機会があるように思う。それから、男女を問わず、誰もが認める美しさでない俳優には安直に実力派、演技派、個性派と言うと思う。実力無い派、演技できない派、個性無い派がいるかのように。そして、真に実力、演技力、個性のあるひとに、実力派、演技派、個性派の看板は要らない。

成人して何年もしない頃、中二の時からの友人と熱海の温泉旅館に泊まりに行ったことがあった。二間続きの離れか何かだったと思う。何歳と踏んだか知らないけれど、その部屋へ泊まる私たちくらいの女性ふたりという客はなかったらしく、仲居さんにも番頭さんにも女将さんにも珍しがられた。友人は目鼻立ちがはっきりしていて、化粧をすると大人っぽかった。それで出した答えが、友人が浅野温子で、私は付き人で身の回りの世話をしながら修業する女優の卵というもの。ひとりで部屋を出たとき、仲居さんと番頭さんに呼び止められ、貴重なお休みをお忍びでお越しいただきと付き人と思い込み礼を言われて、私に浅野さんのサインをと頼んできた。坂道に苦慮する赤いミラ(友人の軽自動車)で来ますか、浅野温子が運転してと問うと、お忍びですし、お客様は運転免許を取れる歳ではないですしと勝手にU18とは何なのというところだけれど、女優の卵に見えるのかとちょっと嬉しかった。何かしら美貌の欠片が微塵でもあるかに受け取って。友人からはちゃん付けで呼ばれ、私はさん付けというのも影響したと思う。中二のときから、そう呼び合っていた。では聞いてみますねと思わせぶりなことを言って部屋へ戻り友人に言うと「浅野温子か、悪くはないな」と彼女もまあまあ喜んだ。宿帳に書いた通りの者なのでとサインをお断りしたけれど、含みのある頷きで、あくまでもね、そうですよねなどと言って、理解を得られたかわからない。こちらとしても、どうしても解かなくてはというような誤解ではなかった。



夕方、前日に続き、Pさんが夕飯を届けてくれた。受け取りに出て、犬のごはんを用意して、もらったごはんを食べ始めて、というところで息苦しさと怠さが耐え難い。呼吸も耳の聞こえも脈もおかしく、パニック発作に違いないと思うものの落ち着かない。肝っ玉が小さいこと、小さいこと。どうにも苦しくてPさんにSOSを出して、犬と犬とお邪魔して居間を占拠した。

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