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今日一日だけでもすなほにつつましく正しく [日々の暮らしで思うこと]

Sunday, 3rd January 2021

朝、目が覚めると熱は37度を下回った。平熱よりはまだ高いものの怠さと痛みが弱まり、昨晩より随分楽である。空腹感もあって、前夜食べるつもりでいた伊達巻と蒲鉾とおから蓮根を出して、伊達巻は消費期限が2日とあるものを8時間ズルをして食べた。昼まで愚図愚図食べたので12時間のズルかもしれない。期限切れや怪しい食べ物を食べるときに気になるのは過去に見た食中毒のニュースで、どこかの旅館のロビーに飾られていた赤いキノコを部屋に持ち帰り食べたとか、冷蔵庫に何日かあった鶏肉を大丈夫かなと思いながら食べて大丈夫でなかったとか、出来心、油断からしでかしたのを大っぴらに伝えられてしまうことで、さすがにこの頃は配慮されて実名を避け「何処其処の何歳の女性/男性」のように言うけれど、バレない気がしない。期限切れの伊達巻を食べてニュースになっても事実だから仕方ないが、いつだって詰まらせぬに限るけれど、餅すら喉に詰まらせてはならぬ昨今、徹頭徹尾家庭内のこととして収めなくてはと思う。お腹が痛くなりませんように。

腹痛で言うと私は下痢をしやすく、Pさんは便秘がちだ。母が便秘のひとで、下痢も便秘も内臓のはたらきがよくないために起こる、現象として対極に見えて似たようなものと言うひとがいて、遺伝的なものかと思いかけたけれど、下痢も便秘も遺伝しない、生活習慣、食べ物や暮らし方で決まるという話を聞いて、それはそうかとあっさり納得した。私が瀉腹がちなので比べようがないけれど、母は割と重度の便秘だったと思う。どうにもならなくなると母は私にイチジク浣腸を買って来させた。小学校高学年から中学生の頃で、喜んで引き受けるおつかいではなかった。一遍にまとめてということをせず、必要となるたびひとつふたつで、毎回、買わずに済んだらどんなによいかと思うのだけど、正規正当に売られるものを売り値で買うのに何も恥じることはないとも思って、買わずに済ませたい気持ちを意地になって抑えていた。はじめから何も思っていないならよいけれど、嫌だなと思ったなら、何だか嫌だけど頑張って買おうくらいに思えていたら、もう少し気楽だったのではと、後になって思う。何に対しても理屈や道理に適うことをしたいと思ってしまう。これは今も続いている。自分で気付かぬところで緩く温く生きていると思うけれど、何だか判らぬ何か、気の弱さ気の迷いのようなものに負けまいとして、常に正しいと思うことをしたく、考えの及ぶところでは窮屈さがある。これまで自分自身でイチジク浣腸を必要としたことはないけれど、必要になれば通販を頼らず、排便が滞ってそれを促す薬を買うのに何が悪いんですかという顔をして薬局で買うんじゃないかと思う。何の我慢大会だか。

遺伝みたいなものには恐怖があった。母はそうした病気が起こりやすいとされるより随分早く罹った病で身体の少なくない範囲で機能を失っており、そうした身体の病気と母の統合失調症と父の自殺とを受け継ぐのではないかと案じた。Pさんの見た目は母によく似ていて、言動も似ているかしれず、父が自分の考えを押し通すことやあれこれ考える癖はそのまま私にある。遺伝を全く忘れることはできない。幸いにもこれまでのところ、案じたことそのものは起こらずにいる。怠惰な暮らしをしながら一昨年までは生活習慣病の気配もなく、精神的な症状のほかは問題にならなかった。一昨年、急に血圧が高いことになって、一遍に老化した気がするけれど、かと言ってそのために診てもらった医者から血圧を下げる薬は出ておらず、生活習慣を気をつければどうにかなるのかもしれない。Viva 健康。

星占いは信じぬのだけど、生まれ月が人柄に出る感じはしている。1月2月なんかは厳冬なのでぎゅっとしているとか冷え切っているとか、4月なら華やぐとか、5月なら爽やかとか大雑把な分け方で経験則を言えば。母とPさんは6月生まれだから梅雨っぽいと言うと、これありきみたいなことになるけれど、控えめに言って梅雨っぽい。同居人と前の主治医は5月生まれでそれはそれは爽やかさっぱりはっきりくっきりでございましたよ。アルバイト先で意地悪な5月生まれのひとがいて弱気になったものの、さっぱりはっきりくっきり意地悪で、加えて6月生まれの梅雨っぽいひともいて、自説を維持。

このアルバイト先の5月生まれのひとが、「さつき」という名で何人か姉妹で、そのうちのひとりが「やよい」だそうで、渡る世間は鬼ばかりみたいでしょうと言われたけれど、見たことがなくよくわからなかった。入院したとき「さつき」というひとがいて、5月生まれだからと言っていて、もう少しで「やよい」にされるところだったとも言って、マジか卯月でなくと思って、渡る世間は鬼ばかり的なものだったのか、閉鎖病棟ユーモアだったのかよくわからない。彼女はあまり爽やかでもさっぱりはっきりくっきりでもなかった。そこは5月生まれだったのかという辺りから曖昧。残念ながら閉鎖病棟で見聞きしたことは全て疑ってみるのが妥当。

アルバイト先のさつきさんは「思うことをズケズケ言いつつさっぱりしていて面白い」という自己評価のひとで、自分でそう言っていたりするのだけど、気に入らないことがあっても相手の立場、気の強さにより言ったり言わなかったりで必ずズケズケ言う訳ではなかった。ただ、自分でさっぱりしていて面白いと言ってしまうくらいなので、思うことを思うように言う場合もある。あまりじっくり考えないのかなということが時々あった。あまり考えずにいるせいか、私の言うことに度々感心するのだった。自分の中にない表現らしく、詩のようだとか文学的だとか言う。私をおだてて何の得もなく、私はどんな反応もせず、彼女は本心で言っているように見えた。今、何て言ったの、もう一回とメモを取ろうとすらして、私はもう一度言ったりはしなかったけれど、あれが嫌みだったら相当な意地の悪さで、渡る世間は鬼ばかりと言えましょう。

Fさんの年末のTwitterの牛の絵が素敵で、その牛の絵のTシャツがほしいと思い、そのまま伝えて、五分で描いたという返事をもらった。すごいな、五分で描けてしまうのかと感心して済ませてしまったけれど、年が明けてから、牛は年賀状用の牛で、ブログを読んでくださっているという続きのあることに気付いて、お年玉になった。ありがとうございます。うっかり者で失礼いたしました。

夕方から微熱となって、喉の痛みが増した。安静にして栄養をと言って、Pさんが夕飯と干し柿を届けてくれた。干し柿はふたつ食べられる感じでいたけれど、ひとつで充分だった。

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鍵穴だけがぽつんと開いている [日々の暮らしで思うこと]

Saturday, 2nd January 2021

朝、蓮根とおからと胡麻を炒めて煮た。煮汁に年越し蕎麦で残った蕎麦つゆを使った。ひと粒で二度美味しいとはこのこと。鰹のだしがきいてか、どことなく普段とは違う味わい深さに思う。焼いた餅を醤油に浸けて焼いた海苔で巻いた。海苔を焼くときには母を思い出す。「中火の遠火で中表」というのが海苔を焼くときの彼女の教えで、海苔の表と表を内側に合わせて重ね、中火にした火へ離してかざす、そんな意味だ。枚数を焼かず、ストーブに当てて済ませたりで、そのように焼くことは少ないけれど、ストーブで焼いても「中火の遠火で中表」と教えられたことは思い出す。そう焼いた海苔がどう違うものか知らぬまま。

母は私が中学生の頃、統合失調症を発症して、完全に家を出て行くまでは自宅で療養したり入院したりしていた。母がいないと日常生活を取り戻すことが出来て、病院から戻って来てほしくなかった。けれど入院から戻ると落ち着いていて、会話の成り立つこともあり、人柄を見ることもあった。何回目かの入院から戻った母は「入院先であなたの友達のおかあさんに会った、お酒の問題に苦労されていた、約束したから誰とは言えないけれど」と言った。誰とは言えないと約束を守るところは病に操られていない母の言葉に聞こえた。もう母が帰ることがなくなっていたから何年か後、電話した友人の様子が明らかに違って、ああ彼女のおかあさんだったのかと察した。母は誰だか言わなかったけれど、友人の母親は友人へ言っていたのだと思う。強請られると思ったのか、引け目を感じてか、精神病患者の家族と関わりたくなかったのか、何だか解らないけれど、友人は久しぶりというだけでは説明のつかない余所余所しさだった。迷惑と言葉にしなくても私からの連絡は迷惑なのだと判った。後日、彼女の母親がアルコール依存症と知り、私の見当違いではなかったと思い、少ない友人のひとりを失くした。

彼女とは中学二年生の時からの友人で三年で別の組になっても、その後進路が別れても友人だった。中学二年からの友人は他にふたりいて四人で行動することが多かった。電話も四人のうちのひとりと話して四人で会おうとなり、分担して私が彼女へ連絡することになったのだった。彼女は背が高く、運動神経がよく、バレーボール部と演劇部を掛け持ちしていた。文化祭では夕鶴の与ひょうを与ひょう以外の誰にも見えない熱演で観客を惹きつけた。客席から拍手を送りながら、才能溢れる素晴らしいひとが私の友人で誇らしかった。他のふたりは年齢なりの軽はずみなところがあったけれど、彼女は少し大人で、思うことを言わぬ控えめなひとだった。見た目もよく、文化祭での成功もあり、芸能界を目指して不思議なかったけれど、そうした考えがなかったのか、地道に学校へ通い、大手企業に就職した。それからあとのことはわからない。

彼女の父親は私たちが友人となってから亡くなった。台風か何かで大変なときに山へ入って大怪我を負い、意識のない日が何日か続いた。中学生の中年男性への冷酷さだったのか自分の親がそうしたことで死んでは敵わぬとの苛立ちか何だったのか、あのような天気で出かけたのが悪い、絶対に助からない、馬鹿なことで死ぬ馬鹿などとあちこちで語られた。酷いことを言うものだと思ったけれど、何かあれば父を亡くしている私は彼女の相談相手になれるのでは、更には四人のうちふたりが父親を亡くすとはと一瞬のうちに思ってしまい、批判できない。実際に亡くなったとわかったときは、私が諦めたことがよくない結果を招いた気がした。だからと言って謝っても私の気が少し休まるだけで、辛い彼女へ無意味に負担をかけるだけと想像できて、このことは誰にも言わなかった。勝手なことに、電話で余所余所しくされて、荷が軽くなったような解放感があった。

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13時頃、犬と犬と散歩した。建物全体が冷凍庫らしいと聞くだけ聞く冷凍庫ビルディングの脇に山茶花が咲いていて蜜を吸いに来たのかメジロがいた。年末にも見た気がしたけれど飛び立つ後ろ姿で不確かだったが、今回は確かに見た。メジロは姿形と色が絶妙に可愛らしく、見かけると気分がよい。一度、野鳥の会の資料をもらってバードウオッチングは思ったよりお金の要る趣味のように思った。続けて届く資料を送らぬよう頼もうとして、メジロを見かけたりすると決心が鈍るけれど、双眼鏡を買えそうになく観察会に行かれそうもなく郵便代が勿体なく、断るべきだと思う。野鳥は単独で肉眼で薄ぼんやり見守ろう。

冷凍庫ビルディングでは年に一度、求人募集があって、ケーキにイチゴを乗せるだけのお仕事で、二日か三日で終わりで、多分クリスマスケーキとかなのだと思う。日がな一日イチゴを乗せ続けるということをしてみたいし、冷凍庫ビルディングの実情を知りたい気持ちがある。なかなかタイミングが合わず応募できずにいて、昨年末は募集がなかった気がするし、イチゴを乗せるなんてことは機械化されるかも知れず、私は年々寒さに弱くなっており、応募できる日があるのか微妙だ。焼売のグリンピースを乗せるだけのお仕事はどうだろうか、疾うに機械化されているだろうか。と思って、焼売であっても蒸し器の中で乗せる訳がなかった。冷凍庫でのお仕事なら寒さは同じで、小さい分イチゴより難しいに違いない。

14時前、犬の散歩の帰りにPさんに呼ばれて昼食をご馳走になる。正月らしい料理が並び、箸には箸置きが添えられていた。箸置きが枕のように箸頭の下へ置かれていたけれど、そこはスルーした。私の知らぬ流派の置き方かも知れず、前日揉めたとき、午後に元旦と言われて元旦は午前と返したら常にそうやって馬鹿にすると叱られたので。馬鹿にしたのではなく、彼女は周りのひとへ馬鹿だ何だと暴言を吐くので、そうしたひとたちに誤った言葉を使って侮られてはいけないという思いがあるのだけど通じない。私の日頃の行いが悪くて仕方ない。さて、ご馳走は一遍に30品目が摂れそうで栄養がありそうで、且つ、美味しかった。これこそ人間の食べ物、家庭料理だと思った。

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食休みのあと、置き入浴剤のバブを放り込んだ湯へ浸かった。身体のあらゆる痛みが和らぐようで二度と湯船を出られない気がした。頑張って出ようとすると力が入らないほどに緊張が解けた。二十回目の挑戦でどうにか風呂を出て髪を乾かし、二切分が板に残る蒲鉾をもらい、犬と犬と帰宅した。暫く椅子で休んで座ることが辛くなり、横になってあまりにも怠くて身動きが取れず、身体中の痛みが酷く、18時過ぎ、寝転んだまま試しに体温を測ると38.2度だった。んもーと干支の鳴き真似をして、地域のコロナ対策パーソナルサポートとLINEで友だち関係を結んだ。21時前、ハーゲンダッツミニカップのマカデミアナッツを食べると体温が0.3度下がり、もう五個頑張って食べたらと思うも直ぐにふざけている余裕がなくなり、心細くなりながら犬を残して死ねないと珍しく健気に考えた。
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ソルマイテス・テシオエンシス [日々の暮らしで思うこと]

Friday, 1st January 2021

年末に頼んだドッグフードが1月7日以降の発送とあり油断していたら、何のサービスかドッグフード屋さんが大晦日に発送くださり、元日受け取りとなった。年賀状や急を要する荷物で忙しいであろう日本郵便へお手間をおかけして恐縮である。そういう訳で今年はじめて会ったひとは郵便配達のひとであった。一年の計は元旦にありとは、早々に今年をどう暮らすか計画して何かを成し遂げろという意味なのか知れないけれど、元旦にあったことが一年を通じて繰り返し起こるものという思いがどうしてもして、できるだけ何もせず心穏やかに過ごすようにしている。でも、今年は郵便配達のひとに会ってしまったので、郵便を受け取り続ける一年となるかもしれない。くれぐれも現金書留でありますように。

そんなことを思う間に年末ジャンボ宝くじに当たったひともいるのだなと思う。七億円もらったら、ひとはどうするのかしら。拙宅でもたまにジャンボ宝くじを買うことがあって、当選発表まで完全に一等が当たる気でいて、当たったらどうするかをかなり真剣に考える。私は今より交通の便のよいところへ越して現状程度の生活を送りたいと思うのだけど、同居人は鎌倉に家を買いたいと言う。鎌倉に家を買ったら当たったお金がみんななくなるよと言うのだけど、仕事を続けるから生活費は大丈夫らしい。と聞くたび、びっくりする。宝くじなんて働きたくないから買うものじゃないのか。

同居人は暴力団員にならぬよう実家から遠く離れた伯母に預けられ、伯母は生涯働き続けたひとで、同居人に正社員になれと口うるさく言った。ふたつ面接を受けて、どちらも採用となったけれど、もう一社は夜勤があり、そうでないほうを選んだ。そんな具合に選びながら、何億円と手にしても辞めたくない仕事に就いた。自動車部品をつくる会社の品質保証部門で不良品の調査をするのだけど、これは製品の成り立ちの全てを理解しないとできない。複雑さは大きく違うだろうけれど病理解剖に似ているかと思う。不具合として現れたことから、どの辺りに何がありそうか見当をつけ探っていく。クルマの種類の多さから見ても解るように同じように見えて様々異なる製品がある。専門的に学んだひとが図面上理解していても現品を見るとさっぱりということは日常的にあって、社内のものも客先で出たものも概ね彼が調べる。時に、あまりに古過ぎてわかるひとがいないからと他社が省庁へ納めた年代物なども調査やら修理やらしている。そうなるまでに彼はとても努力した。どこがどう悪いか解れば同じ不具合を防ぐことができ、場合によるけれど不具合品そのものも使うことができるよう修正できる。仕事として美しく、唯一無二の誇りは解るので続けたい気持ちは本当なんだろうと思う。出世には全く興味がなく、(給料の算出に使われる)等級だけ上げてくれと威張って言うのだった。そういうところが私にはカッコよく見えた。

同居人は伯母のところへ送られる前には奈良にある宗教団体に預けられてもいて、午前0時から午前3時の睡眠時間以外全て修行に充てられていながら、そこで親しくなったひととそのひとのお金で遊び歩くなどしていた。そのひとは九州の暴力団組長の子で、宅配便で菓子や何かが届くとき、一緒に銀行の帯がついた百万円が送られてきた。月々の小遣いがそれだったらしい。何の修行だか。同居人母はそれで暴力団員になると案じたかと思えば、このことは話していないとのこと。奈良送りはグレた同居人を母が現実的に受け入れられず、狐が憑いたと思おうとしてのことだった。狐が憑くよりグレたほうがよくなくなくない。どっちだ。何にしてもどこかへ行かせるのは同居人には向いていなかった。話せば解るひとなので、母が手っ取り早い安易な方法を選んだように思う。母は母で事情があったかもしれないけれど。

31日の掃除でドライフラワーと化したススキを捨てた。昨年10月1日中秋の名月の日に犬と犬と散歩していて見知らぬひとがくれたススキだ。三本を手に「今、もらってきたものです、あなたに差し上げます」と二本くれた。その晩、月を見上げるつもりのなかった私に。どうしてとは聞かなかったけれど続けて「ぜひ、あなたに」と言われて、もらうべきかなと思った。それでその夜、月を見た。ススキ二本を手に握って。名月かなあ?と思う月だったけれど、ススキがあるとそれらしい感じがした。それからずっと部屋に飾っていて、花が咲いたのか穂が膨らみ、水をあげないうちにカサカサに乾いた。あの夜見た月は思い出せるけれど、ススキをくれたひとの顔が思い出せない。すれ違ってもわからないなと思うと残念だけれど、くれたひとは私が月を見たならよいのかも知れず、ススキを捨てても悪くない気がした。

朝は栗きんとんと伊達巻と焼いた餅を食べ、午後には犬と犬と散歩して、その後にはPさんに理不尽に酷くキレられるという正月で、さてもさても。家出しようかと犬へ言う。

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沓の子槌の子毒きのこ [日々の暮らしで思うこと]

Thursday, 31st December 2020

蕎麦を受け取りに。手袋を買いにのような詩的な響きにならぬかと思ったが全くならぬ。08:35頃、ニーチェにて年越し蕎麦を予約した蕎麦屋へ行く。駐車場へクルマを停め、犬と犬とPさんを残して蕎麦屋へ。前のひとが済んだら入店、店の中では間を開けてふたりがテーブルで待ち、ひとりが蕎麦の受け取りと会計という形で密を避けていた。蕎麦(汁付)2人前@1200、天ぷら(海老2南瓜1茄子1)@1000、計2200円(税込)をPさんの分もまとめて2組受け取り、4400円をPayPayで払った。御年賀と書かれた小箱をもらい、中には缶入りの七味唐辛子(中辛)7gが入っていた。スティックのりPITより直径が大きいものの手のひらサイズで、つまりは持ち歩くことができる。食卓や調味料入れへ並べても全然よいけれど。七味は一会計ひとつで、Pさんがほしがるかもしれない。もらってよいかPさんに聞いて、よいと言うので御年賀の七味唐辛子をもらった。

10時近く、Pさんが生姜や何かを買い忘れたというので直近のショッピングモールへ移動、Pさんが買い物する間に犬と犬と歩く。風は冷たいけれど陽が暖かく、ショッピングモールの外を歩くひとは少なく、散歩に丁度よかった。犬と犬は人工的な建物に囲まれたタイル張りの橋や床を、普段と変わらず毎日通るかの顔で歩く。Pさんに何か要るものはと聞かれて、文明堂のどら焼きをふたつ頼んだ。年末のうちに買ったもので年始をできるだけ長く生き延びる計画で、どら焼きのふたつくらいはあってよい気がした。

10時半頃Pさんが戻り、ついでに足を延ばして、画像持参でOne Buy Oneの催しをしていたチーズタルト屋へ行く。店の外でPさんが「先に行ってきて」と言ったと思い、画像を見せ、ひとつの値段でチーズタルトをふたつもらった。外で待つ犬たちとPさんのところへ戻ると「先に見てきて」と言ったのに勝手に買ったと苦情を言うので、聞き間違えたと言って謝った。見てくるって何だよと思いながら。続けて買いに行ったPさんは戻ってきて、One Buy Oneにならなかったと言うので画像を見せたか問うと見せていない、買う前に画像を見せるよう言わないからと少し怒っている。事前に画像を送った上でこのようなことがあると伝えたのでわかっていると思った、画像にも説明が書かれていると言うと、画像などいちいち見ない説明が足りないと怒り、もういいけどと言う。「いいけど」と許されなくてはならないことなのか。Pさんは期間限定らしい柑橘系を買っていて、念入りなことに二種四個なので、私の基本のチーズタルトを含め、三種をひとつずつ分ける算段だろう。基本のチーズタルトだけを食べたくて買ったのだけど。

帰り道、踏切の向こうが入り組んだ交差点というところがあって、助手席のPさんが「右は大丈夫」と言うので、右は見えるから左を見てと少し強めに言うと「文句ばかり、否定してばかり」と不満を言うのだけど、そっくりそのままお返ししたいし、運転する私越しに右側を見ようとしてPさんが前のめりで左側が全く見えず、踏切と道路の横断があれば「左を見て」と言うよりないと思う。実際のところ、分担して見る必要はなく、視界を妨げないでくれれば一番よい。こういう些末なことはその場で忘れていきたいけれど、何が悪かったのか避ける術はあったのか考える。自分のなかでは最善を尽くした気でいて、降りかかる火の粉で常に火傷を負っているように思ってしまう。百通りの逃げ道を考えようとして二通りも思いつかない。

国道へ出ると南側にあまり高くない、多分五階建てくらいの建物があり、壁に لا إله إلا الله محمد رسول الله と思しきことが書かれ、下に「アッラーのほかに神はなくムハンマドはその使徒である」と添えられている。ここを通ると何故か口に出して「アッラーのほかに」を最後まで読み上げてしまう。何かを意図してではなく、そうせずには済まない抑えられない何かがあって、それが何なのかわからない。声に出して読みたい日本語に入っているのだろうか。イスラム教徒に連れ去られたとき、シャハーダを唱えると殺されないことがあると何かで見たが、アラビア語で言わねばならず、日本語で「アッラーのほかに」を言っても概ね無意味だ。ただ私の気が済むより何もない。

11時過ぎ、ニーチェにて帰宅。直ぐに犬と犬と毛布を抱えPさんの家へ行き、11時半頃、Pさんが買ってくれていた焼鳥弁当を食べる。黄色い卵的なものが苦手だったけれど全て残さず食べた。

12時半頃、Pさんのクルマでコインランドリーへ行って毛布二枚を洗濯乾燥機へ入れ、1300円を現金で投入した。終わるまで一時間かかるのでマツモトキヨシへ行った。クリネックスティシュとエリエールのトイレットペーパーと泡ハンドソープキレイキレイとユニ・チャームのデオシートレギュラーサイズ超吸収116枚+おまけ4枚入を割引葉書を使って買い、2579円をauPayで払った。美味しい蕎麦と美味しい伊達巻があるのに山葵がなかったことを思い出し、割高スーパーマーケットへ行き、ハウス特選生わさび、S&B本生本わさび、同本生きざみわさびで五分悩み、S&B本生きざみわさび43g税込149円を買い、auウォレットで払った。13時半頃、コインランドリーへ戻り、毛布を回収した。ふかふかで気持ちよい。洗濯乾燥機の扉にはペット用品の使用不可とあり、保健所の指導によりと説明されていた。毛布には犬と犬と私で包まったりすることもあるけれど、主に使うのは私なので多分問題ない。私は確か誰にも飼われていない。14時頃、Pさんの家へ戻り、持参の入浴剤バブを入れた湯へ浸かり、長葱を一本もらい、分けた三種のチーズタルトを持って、犬と犬と帰宅した。

一時間ほど、軽く、しないよりましくらいの掃除をした。やるからには成果をみたいな思いで結局手が出ないということがあって、一分でも二分でも、できることなら十分くらい週に何回か掃除したらよいのではと思う。今から2021年の大掃除を始めるつもりで。

18時過ぎ、年越し蕎麦をつくって食べた。一人前ずつ茹でるよう説明書きにあったが蕎麦が細くやわらか繊細の極みで分けることができない。詮無く湯を大量に沸かした鍋で二人前を茹でた。素人がインチキをしたのに格別の美味しさで有り難かった。蕎麦湯も美味しく、五分悩んで選んだチューブ入りきざみわさびも悪くなかった。2020年の終わりにMUSEの2007年のWembley StadiumのLive動画をYouTubeで見た。太平楽。

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回転窯式ポルトランドセメント [日々の暮らしで思うこと]

Wednesday, 30th December 2020

朝、Pさんから平塚か茅ケ崎へ行けば私の好きな伊達巻と栗きんとんを買えるかもしれないと連絡があった。あれば嬉しいけれどもう諦めていて、別の年ならともかく、わざわざそのために出かけて買ってほしいものでもない。けれど、行かれるか行かれないか、とりあえず行ってみるとPさんはクルマで出かけて行った。アクセルしかないひとだ。一緒にと言われなかっただけ楽ながら、私のために人混みへ行くという認識で出かけた気がするので荷が重い。家でのんびりしてくれて構わないのにと思う。

私は私で犬と犬を連れ、花を買いに隣町の農産物直売所へ出かけた。正月仕様か普段3輪で400円のバラにソリダコっぽいものをひとつ添えて1500円などで売って高過ぎる。実付き南天が800円で正月らしい感じがあるものの上手く飾る自信がない。というか何かしら花がほしかった。菊菊していないように思う菊を2束@400税込800円と卵13個入税込350円と茨城県産蓮根税込190円を買い、1340円をauウォレットで払った。卵はネットに入るだけ詰められていて開いて数えるまで、いくつ入っているかわからない。冷蔵庫には20個の卵ポケットがあって何の心配もない。

かつての勤務先でアルバイトから社員となったとき、歓迎会のような飲み会が開かれた。私はそうした宴席も酒も苦手で早々に逃げ出した。飲み屋から駅までの道を歩くときオオカミが二足歩行しているようなワイルドなひとに送ってもらった。これを見かけたひとが上司に報告して、翌日上司に呼び出され、オオカミとふたりで帰るなんて何をされるか分からない、無事でよかった、くれぐれもオオカミには気を許さぬことと厳重に注意された。遠い昔、私も小娘扱いされたのだった。オオカミはちょっと古株の同僚で落ち着いて見え、何が起こるものでもないと思っていた。後になって、私より若い女性がオオカミと恋をして、オオカミには妻がいたので辛くなり退社したと聞いたけれど、そう聞いても私にはただの同僚だった。それでまあまあ話をしたのだけど、オオカミが祖母の墓に赤いバラを供えて叱られたという話があって、私はふうんと聞いて、それで?と待ったけど続きはなかった。あれはどういう話だったのかと思い、分別のありそうなひとへ聞くと墓前にバラは供えない況してや赤いバラはと教えてくれた。更にはオオカミのロマンティストアピールであろうとも言った。そーなんだー。物を知らぬので偏見が少ないというと聞こえがよいけれど、大抵のことをそういうものかと思ってしまい、本当は驚いたり怒ったり笑ったりするものだと後で解る。ということが今もある。オオカミは私がまだ勤務しているときに私と同期入社のヘイコラが少し出世して、そんな評価をする会社に嫌気がさしたと言って退社した。確かにオオカミのほうがヘイコラの百倍は仕事ができた。でも、私が思うのは、頭を下げるのも才能のうちかもしれないということ。才能が言い過ぎなら努力と言い換える。私は下げたくない頭は下げないし、愛想笑いもしないし、挨拶もされたら返すくらいで生きている。それに比べヘイコラは本業実務についてはさっぱりなのに揉み手だけは誰より巧い。今では取締役で、ちょっと考え難い人事で、ヘイコラした甲斐があった。こういう結果があるとわかっても、私はやはり下げたくない頭は下げられない。オオカミは離婚して住む場所を失くしたとか、パチンコで食いつないでいるとか、借金で首が回らないなどとあまりよくない話だけ聞く。パラレルワールドにヘイコラが挫折してオオカミが出世する世界があればと思う。本当の実力主義。だとすると、同居人が一番出世してしまうけれど。

日産車とまとめて、WiLL Cyphaの任意保険を日産経由で加入していたけれど、日産車は手放しており、販売店は遠く、更新の手続きに手間がかかった。それでクルマを換えると同時に日産経由をやめて、カローラ経由に変更した。何もかも持っていくな、カローラ。と思いながらも3kmの近さは楽で、プリンスは45km離れていて密使を立てるなどせねばならず、気に入らなくとも便利さは侮れない。そういう訳でWiLL Cypha任意保険解約の書類を郵便ポストへ投函した。社長と香川照之の宣伝が苦手でトヨタを好きになれず、あれを見ると嫌な気持ちにしかならない。宣伝として成立しているのだろうか。私のように宣伝を嫌いながら詮無くクルマを買った者のいることを社長と香川照之に伝えたい。送られ続ける不動産屋の要らぬ手紙が郵送されたものだったので、受取拒否と書いて署名した紙を貼付、これも一緒にポストへ入れた。そんな具合に受取拒否と社長と香川照之に伝えたい。送り返すものがないけれど。

昼にはPさんが私の好きな伊達巻と栗きんとんを買って帰ってきた。同じ店の南瓜プリンもあって、仕出し屋の弁当もあって、刑の執行はいつですかという気持ち。ご馳走が多くて畏れ多い。高額な買い物をしながら処理を誤り駐車場代が無駄にかかったとも聞いて落ち着かない。かと言って何ができるでなく、2800円と言われて3000円を出して、お釣りはいりませんと言うのがせいぜい。

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フォーラーネグレリアオーバーフロー [日々の暮らしで思うこと]

Tuesday, 29th December 2020

正月用の買い物がたくさんあり荷物が溢れるとかで、Pさんはそれぞれ自車で買い物へ行こうと言う。二台連なるプランを示されたが、Pさんは9時20分に、私は9時35分に出発した。私が着く頃には駐車待ち渋滞が起きていて、駐車場へ入るまでに15分かかり、停めたい階の空きが13台にまで減って焦ったけれど間に合った。愛車ニーチェは今月21日に納車されたばかり、安全最優先と注文をつけ、ライトの入切や警告音の鳴る距離などを、全てカローラの担当者に設定してもらった。そのため仄明るい空間を無駄にピカピカ照らしたり、何にも近付いていないうちに警告音を鳴らしたり、私の思いを気にせず好き勝手である。説明書きを読んで再設定するくらいなら少しの考えの不一致は許すつもりで、どこかへ行くたび警告音の言うなりに輪留めの20センチ手前へ停めている。

スパゲティ用に安価なルーミックソースの素ばかりを買っていて、不満はないけれど、何か違うものを試したい。大抵決まったものを売る棚、目当ての商品へ直行して買うので、他にどんなものがあるかさえ知らず、惜しい気がした。スパゲティソースの棚には瓶詰やレトルトのものがあれこれ並んでいた。他を見なければ迷う余地がないが、見渡せば種類が多くて選べない。ついでに見ると左前方に私より先に居たひとが腕組みをして考え込んでいた。うーんうーんと考えていて、ここまで真剣に悩んだなら、彼の選択を私の選択としてもよいのではと思う。勝手に選択権を委任しようとして、散々迷って選んだのがペペロンチーノで、何故ペペロンチーノなの、考え直して正気になってと思う。蟹クリームがどうとか浅蜊がとかアンチョビがとかボロネーゼとかジェノベーゼとかペスカトーレとかあるうち、ペペロンチーノだけは買わぬ決まりで、彼もそうだと信じていた。信じ込んでいた。夢が壊れました。

正月に用のない私は、Pさんより先に買い終わり、先に帰る。安売りスーパーマーケットで二言話したくらいでPさんとは全くの別行動、自由でよかった。09:35出発(48km)、10:12駐車(61km)、11:26出発(61km)、11:53帰宅(72km)、ニーチェの走行距離表示を解明しつつある犬と犬と私、138分24kmの旅だった。遅れて帰ったPさんから昼食に誘われ、Pさん宅で、焼鳥(ひな)、ポテトサラダ、雑穀入り米飯をご馳走になる。夕食用に鶏の竜田揚げとさつまいもごはんを持たせてくれて、29日は鶏と芋の日。

前に灯油を買いにPさんのクルマで連れて行ってもらったところ、Pさんのクルマが灯油臭くなり、何日にも亘り灯油臭いと言われ続け、今後は自車で行こうと決めたけれど、Pさんから新車が灯油臭くなるのは避けるべき、Pさんのクルマは古い&買い換えるかもしれぬから灯油を買うのにぴったりなどと説得され、灯油容器をPさんのクルマへ積み込んだ。Pさんの珪藻土バスマットの返品返金にカインズへ行くと、いつものガソリンスタンドの灯油18Lが1476円のところ、カインズは1350円で、安物を買って珪藻土バスマットの返品に来たことを余所に安い灯油を買った。灯油の入った容器をPさんのクルマへ積むと、こう置いて良いかとPさんが灯油容器を荷台に寝かせた。上部のキャップへ灯油の触れない立てる置き方で漏れたなら、寝かせては益々漏れると思ったものの、良いかと聞きつつ、そう置くと決めている様子があり、クルマの持ち主に言われては了承するしかなかった。そんな置き方の灯油容器はこれまで見たことがない。

途中、公園で小一時間、犬と散歩する。Fさんの素敵な牛の絵を見たり、犬がグルウミングで牛模様のマフラーをもらったり、何か牛づいていると思っていたら2021年は丑年らしかった。びっくりしたなあ、モウとか言うビートたけしを見るだろうか。花壇に葉牡丹で丑年とあるのを見るまで気付かなかった。元号の年や自分の歳なんかも思い出さない。生物として表面的に起こる経年変化に比べ、心の中は然程大きく変わらない。二百歳まで生きても、良くも悪くも、私はこんなふうだろうと思う。

行ったカインズでは事足りず、別のカインズへも行った。買い物を終えて何も考えずに階段を上り駐車場へ出て、クルマがどの辺りだったか一切記憶になく、見回してもクルマが見当たらず絶望しかけて、一階の平面駐車場へ置いたことを思い出した。一階へ停めたことを忘れて二階へ行ってしまいながら絶望するのを止めてよい気はせぬものの、一切記憶がない真っ白な状況から見れば、普段そうすることの多いものを身体が覚えていて勝手に動く、そして一階の平面駐車場と思い出すのは、多少なりとも救われる。救いがないのは寝かせた灯油容器で、灯油にまみれ、極小のナイアガラの滝。ナイアガラの滝は途方もなく大きく、激しく流れるのが水だから名所なので、灯油容器の大きさでは誰も見ず、灯油が勢いよく大量に溢れ出るなら観光以外の用途で名を成す。しょぼしょぼ灯油の漏れた容器など大雑把の証しよりほか何もない。灯油容器を買い換えて解決しそうな気がせず袋小路。灯油ストーブを諦めるしかないだろうか。

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ひとつの病ひとつの衰退ひとつの特異体質 [日々の暮らしで思うこと]

Monday, 28th December 2020

ミルクのようにやさしいダイズという豆乳のようなものを長く飲んできて、ここ暫く飲んでいない。容器にカルシウムとか、まるごと大豆飲料とか書かれていて、何となく健康によさそうで飲んでいたけれど、飲みやすくて身体によいものがあるだろうか。美味しいものは身体に悪いに決まりだと思う。飲みたくないものこそ健康によく、美味しく飲むことができたらそれは毒なんじゃないかな。というか、本当のところ、そんなに美味しくない。野菜一日これ一本もやめていて、どちらも、豆乳にしては、野菜ジュースにしては飲みやすいけれど、飲み物として美味しい気がしない。私には、毒にも薬にもならず、飲む理由がない。毒なら毒、薬なら薬であれば飲むかもしれないし、美味しいならやはり飲む。ぼんやりとした期待だけでは飲めない。

何かに Gothenburg とあって何のことか調べると「Göteborg ヨーテボリ」の英語表記だった。Gで始まる地名が、ヨ或いはイからの発音となるらしい。ヨーテボリは電気バスの移動図書館が走るスウェーデンの港湾都市の名で、VOLVO本社があり、今月末には市内で145台のVOLVOの連結式電気バスが運行可能になるとのこと。電気椅子は座ると電気の流れる刑罰に用いられる椅子だけれど、電気バスは電気を動力として走るバスである。念のため。

スウェーデンとデンマークの合作TV番組に、二国間をつなぐ橋の国境で不審な遺体の見つかるものがあった。上半身がスウェーデン、下半身がデンマークにあって、両国で共同捜査をする話だけれど、日本で国境へ半々に遺体を置く設定なら関門橋だろうか。橋の手前も向こうも日本だった気がするけれど。リオデジャネイロでは夜のクルマの運転には信号を無視せよという伝承があると聞いた。赤信号で停まっていて襲撃されるひとが少なくないから。物騒だなと思って聞いたけれど、同居人は北九州も一緒だよ、夜中に信号待ちなんかしたら、棒で殴られたりお金をとられちゃうと平然と言って、リオかよと思った。行き来に旅券が要るだろうと思った。随分前の話で、今はきっと違うと思うので、日本の国境へ遺体を置くのは諦めよう。鎖国の国のひとだもの。

派生して、フィンランドのひとが珈琲をたくさん飲むと知る。一人当たりの消費量が世界トップクラスで、ドリップしたものを砂糖やミルクを入れず、日に何杯も飲むひとがいるという。ムーミンの昼が昼でないようなどんよりした雰囲気からすると、身体や心を温めたり死にたい気分の転換に珈琲を飲まずにいられないのではと暗い印象の裏付けのように思ったけれど、一転、首都ヘルシンキならどこにいても歩いて三十分のうちに海へ出られるらしい。少しだけ行ってみたい気がしてきた。

MUSEにHelsinki Jamというのがあって、ドラムとベースの見せ場で、私にはMatt Bellamyの休憩時間ではあるものの、ドラムとベースの音が好きなので好き。他にMunich Jam、Houston Jam、MK Jam、Osaka Jamなどどれも好きで、好きながらに一聴で何Jamか判らぬこともある。バグパイプが入るグラアズゴウジャム Glasgow Jam と呼ばれるものは直ぐにわかるし、よい組み合わせでうっとり聴くことができる。グラアズゴウというのは刑事タガートのひとまねこざるでござる。

耳栓はSONYのMDR-XB50BSを割と気に入って使っていたけれど、茶犬が玩具にしてバラバラになったので、同じくSONYのWI-XB400に換えた。音さえ鳴れば構わないので、これも割と気に入っている。耳栓で音楽を聴いてやっと、ひとりで外を歩くことができるので、命綱に近い。どちらも重低音モデルということになっているが、言うほどでもない気がする。茶犬に壊されたもののほうが操作性がよく、ボリュームの調節や曲を飛ばしたり戻したりしやすかったが、今のものは言うことを聞かぬので電源入切以外使っていない。モノを知らぬので常識か知れないが、電源入切で一番電気を消費すると聞くことがあるが、耳栓XB400に関しては使わぬときは切っておくほうが電池が持つ。切れば二日三日持つこともあるけれど、切らずにいると一日持たない。

動物保険の請求を九月分からしていないらしいと判り、明細書が見つかれば四回分の請求が出来る。治療費の七割を補償すると謳っているけれど、一回の上限が1万2千円と決まっていて、であっても手続きをしたら最大4万8千円の給付が見込める。それだけあったらMUSEの珍奇な上着付きSimulation Theory Super Deluxe Film Box Set ¥59,500 (税込) が買える気がする。それよりもマニフレックスのような気もする。本当は犬の治療費にとっておくのが利口だとは思うけれど悲しいまでに利口ではない。

拙宅を選挙区に含む国会議員が街宣車で挨拶回りに来た。与党議員も野党議員もそれぞれ来て、マイクを使って名前を何度も言い、自ら来ていますと恩に着せた。馬鹿が、黙れと思ったけれど、与党議員が「コロナを解決します」と口を滑らせたので、馬鹿に間違いなかった。

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地面から空へ向かって雨が降るとき [日々の暮らしで思うこと]

Sunday, 27th December 2020

犬の歯周病によさそうなものが無いかAmazonを見たものの何もなかった。大抵胡散臭くて信用ならない。動物病院やペットショップで買って使ったことのある、来歴実力を知るものしか買えないという考えが強まった。ついでに見ると6300円くらいで買ったフィギュアが6500円になった。一時は5千円くらいになり辛かった。などと言って顔の再現度が高いと思うだけで、つい買ってしまった事実に変わりなく、いくらになっても要らない気持ち。フィギュアの無人販売、百円と書いて家の前へ置こうか、いや百円はないでしょうと逡巡。

昼過ぎ、少し暖かで、自前のコートオンリー既製服無しの犬と犬と散歩した。途中の歩道で前を電動カートへ乗るひと、後ろを杖を使うひとに挟まれ緊張して歩いた。犬が見慣れないひとやモノに吠えることがあって、様々な事情に容赦ないので案じたけれど、吠えなかった。いつまで持つかわからず逃げるようにローソンへ寄り、auのキャンペーンのおにぎりをもらった。数日前にもクーポンをもらい、指定のそれがなくもらい逃した執念のおにぎりが、今日はこれでもかというくらい仕入れてあった。もらったおにぎりをそのまま上着のファスナー付きのポケットに突っ込んで、散歩を続ける。すれ違うひとたちは私のポケットに焼さけハラミおにぎりがあるなんて思わぬだろうと得意になるけれど、すれ違うひとたちは大抵何も思うことなく、ただすれ違っていくだけである。のんびり40分ほど歩いて帰宅。犬の毛繕いのあと、もらったおにぎりを食べた。金しゃりと書いてあるので少し期待したけれど、全体にべたっと米粒が潰れていて、ごはんが美味しくなかった。あとは普通のおにぎり。お腹が空いていてよかった。食後、本を読むつもりが次々にすやすや眠る犬につられて午睡した。

木曜日の受診後、動物病院にクルマを置いて、犬と犬と歩いた。少し歩くと、こんなところがあったのかと思う土手があり、冒険者の心で初めて見て直ぐ初めて踏み入る。土手であるのに川が見えない。動物病院のある辺りとは一変して寂れた物悲しい景色である。土手の高さに屋根のある平屋の建物は養豚場で、凶暴そうな犬が入り口に鎖で繋がれている。少し緩んだところを限界まで力任せに引く鎖がガシャンガシャンと繰り返し音を立て、犬は大型犬の低く威嚇するかの声でバウバウ吠え続ける。声が豚舎の奥へ響いて戻る。時々平屋の端から白っぽい豚の身体の一部が見える。昼過ぎの空は灰色に暗く、辺りは枯葉枯草生気のない木々一面の荒れ野で、ひとの気配がせず、頭の中には The Smiths の Meat Is Murder が流れて、この世の終わりに立った気がした。白犬と茶犬も何を思ってか静かに、若干ニヒルに立っていた。

同居人の高校の友人には大きな養豚場を営む家のひとがいて、そこでは豚を増やし育て肉の形となるまでを仕事としていたのだけれど、友人の母親がいつからか悪夢にうなされるようになり、やがて目が覚めていても自宅の壁が全て血に塗れて見えるようになり、豚の鳴き声が耳の中で止まず、走り回り叫び続けるなどして困ったらしい。母親はどこからか嫁いできたひとで不慣れだったか知れず、養豚場は何代めかの家業で簡単に辞められない。この話を聞いたときも Meat Is Murder が頭に流れた。私はひとや動物を犠牲に生きているという思いがした。The Smiths は好きだけど Meat Is Murder は好きではなかった。言っていることが正しいと思っても好きになれなかった。似たような思いはあり感化されやすく、聴いてビーガンになってもおかしくなかった。どうしてそうならなかったのか解らない。曲の中に使われる音が露骨で嫌だったけれど、それだけが理由なのか判らない。好きでなくとも露骨で嫌いな音も込みで何かと頭に心に流れる。壁はまだ、壁紙の色に見える。

Pさんが「ショッピングモールへ行くので夕飯に持ち帰り寿司を持ち帰る」という意味のことを言い、ショッピングモールの持ち帰り寿司の好きな私なのでとても楽しみにしていたら、Pさんが悪い方向へ気を遣い、普段よりも高い持ち帰り寿司を持ち帰ってくれた。何してくれてるの、いつものあれが好きなんじゃ、ボケ。と思ったけど、言わずに美味しく頂きました。ご馳走様です。ちなみに、寿司はともかく惣菜は皿へ移したいこだわりも伏せています。美味しい牡蠣フライでした。ありがとうございます。

映画は(関わったひとの名前を出来るだけ丁寧に民主的に書くのか、とても長く親類縁者でも退屈しかねないと思うけれど)、エンドロールも見所という場合がなくはなく、劇場を出るにしろ劇場へ残るにしろ、鑑賞するひとへの配慮を忘れないでください。PG12は小学生には助言・指導が必要というもので、小学生未満は尚更で、助言・指導が必要とされる描写に、また、2時間休憩なしで、集中して静かに見続けられるものかお考えください。それらの愚痴を延々聞かされる者の、物の怪、者の気持ち、いえ、何卒よろしくお願いします。

食べさせてもらえぬのに見せつけられ目がボタン目がボタン

Pさんの家で持参の入浴剤バブを入れた風呂へ入り、家へ帰って髪を乾かした。昼間読もうとして読まなかった本を少し読んだ。心を掴む表現で厳しい世界について書かれていて、しっかり読みたいと思ったけれど、20%くらい読んだところで眠くなってしまった。犬と犬をよきところへ配置して布団と毛布を被って寝た。Twitterで掛布団の上に毛布が温かいというのを秋に見て、以来そのようにしている。誤りでも誰にも迷惑が及ばぬので正しい言説か調べていない。
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ガストロディア・アグニセルス [日々の暮らしで思うこと]

Saturday, 26th December 2020

思うことを整理して書こうとするけれど上手くいかない。気が散りやすく、書き始めに書くつもりでいたことを書かずに次へ移っている気がする。漂流先から瓶で送る手紙にしても混迷が過ぎて誰ひとり解読出来ない、書いた本人の解らぬことを誰が読み解くだろう、埋蔵金の在り処が書いてあるならともかく。明日と書いて、明日という言葉があるのか判然としない。今まで確かに使ってきた言葉だろうかと疑う。老化なのか、悪化なのか、気の迷いなのか、よく解らない。

自分の中に数知れぬルールがあり、例えば、漢字。手書きするときに使う漢字だけを使いたい。変換されたからと無闇に使いたくない。けれど、もう、薔薇という字を書く記憶も気力もないのに薔薇を選んでしまっていて、ルールを破る自分に、他人を見る思いがする。"わかる"は、わかる、分かる、判る、解るなど、自分なりの使い分けがあるけれど、使い分けに従わずに選ぶことをすんなりしていて、誰だお前と思ったりして、実際、誰なのだろう。

灯油ストーブは使っているうちに灯油が無くなり消えてしまう。そうした自然の成り行きを意識せず気にせず暮らしてきた。ひとりでに灯油が足されるものでないことを今更知って、どこのお姫様かと思う。茶犬は灯油タンクの立てる音が苦手らしく、ストーブから灯油タンクを抜くたび気が触れて、これをしないとストーブが使えなくなると説得するとき、知らずに同居人の口調で言っている。一人前の顔をして。

何にしても手本があるのは道筋の見える近道を行くようなもの。自転車を知らずにこれは何かと考えるところから始めるのと、乗っているひとを見て自転車を手にするのとで随分苦労が違うように。独自の自転車の使い道を見つけたい気持ちを持ちつつ、先駆者草分けに感謝する。転。同居人は豚を乗りこなせたらしい。同居人の他に出来るひとはいなかったと聞くけれど、乗りこなそうとしたひとが他にどれだけいたのか。両手で両耳に掴まり背にまたがる。右耳を引くと右、左耳を引くと左に進み、両耳を引くと利きの悪いブレーキとなる。走り出しは腹を優しく蹴る。腹を蹴って優しい訳がなく思う。かなりのスピードが出て、豚は凶暴だそうで、危ないから真似はしないでと言われたけれど、いつ、どこで、どのように。誰が。何故。

Pさんに勧められ、拙宅給湯器が壊れて以来、久しぶりの風呂へ入る。持参した入浴剤バブを放り込んだ湯へ浸かり温まった。Pさんは、空気が乾燥し過ぎだ、雨が降らぬと火事になると言って、自然発火の森林火災的なものが直ぐそこで起こるように案じている。悪くない。けれどCOVID-19感染者増大の最中、私の髪が伸ばす意図なく伸びたのが明白なので切ったほうがよい、専門家の元へ出向いてと主張して、心配の按配が悪い。何処の店だとマスクをしたまま切ってもらえるなどと、割と直ぐにも切らせたがっていて、テレビに耳目が奪われている振りで乗り切った。髪は切らない。

テレビには菅首相が出ていて、酷く顔が浮腫み、膨らむ皮膚が目立つように見えた。他人事ながら体調が気になる。拙宅のテレビを七月から見ておらず、内閣官房長官だったときしか知らず、首相ほど大映しを見ないので元からこういう顔だったのを気付かずにいたかもしれない。会食好きという勝手な印象から忘年会続きの顔に錯覚しているかもしれない。顔色のおかしいシャー・ペイに見えたので、多分、私がおかしい。シャー・ペイは藍色の舌を持つという犬なので。

物事を忘れるのを逆手に取れば、新しい本を一冊も買わずに同じ本を読み続けてよいかに思える。書かれたものは増えるばかりなので淘汰が要るのか知らないけれど、売られているうちに買わないと直ぐに絶版となる感じもあって、全く買わぬ決心は難しい。絶版など読者の不利益は簡単に決めて見えて、誤字脱字などは見逃されがちで配慮が足りなく思う。本に誤りを見つけることは滅多にないことだったけれど、今は日常的にある気がする。どこであっても、全般に、仕事の精度や熱意は大切にされていないように思う。世知辛い。
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レモネード味のゴブストッパー [日々の暮らしで思うこと]

Friday, 25th December 2020

年末年始のATMの稼働を調べず、使わないなら戻すだけと9万7千円を、3万9千円、3万9千円、1万9千円と分けて、生活費の口座から引き出した。1万円をauPayに入金して、残りの1万円札6枚と千円札27枚を表裏上下のバラバラを揃えて、角が折れているものなどを先に使うよう上のほうに集めて、ATM脇からもらった封筒へしまった。すっきりした。千円札をガソリンや灯油に使うつもりで分けて下ろしたけれど、10千円と押せば千円札10枚が出てくると聞いて、次回試したい。変にお手数をおかけして手数料が上がってはいけない。

千円札は漱石から変わった野口英世という感覚でいるけれど、2024年には別のひとになるらしい。紙幣の始まりから終わりを見るのは長生きした感じがある。漱石は胃が悪いのにジャムを舐めたとか、小学生へ書いた手紙とか、あれこれ見て知った気になっている。野口英世は火傷で苦労したことくらいしか知らない。伝記か何かのはじめだけ読んだのだろうか。エドガー・アラン・ポーの顔に似ている気がする。エドガー・アラン・ポーは、確か、貧しい暮らしをしていて寒い冬に毛布に包まる病気の妻を腕の中で亡くしたとあとがきか何かで読んで、そこだけ憶えている。作品を思い出さないので確かにエドガー・アラン・ポーの話かどうか怪しいけれど、野口英世の顔に似ている気はする。

木曜日の白犬の病院代は495円でセゾンカードで払った。動物病院もPayPayが使えなくなっていた。1600円くらいですが保険を使いますかと聞かれて使うと言ってしまったけれど、使わないほうがよかっただろうか。更新時の保険料が増えるかもしれない。初夏に既に使っているから同じことかもしれない。分からない。白犬は私の歯磨きでは改善しないどうにもならないと分かると急に口臭があるように思い、一刻も早く治療をしなくてはならないような気になる。予約の取れたのが二月後半で、そこまで何も出来ないので不安だ。10-0、100-0的思考への偏りを感じる。

月曜日のパン屋へ金曜日に行った。三週連続だ。もう、何曜日のパン屋と言わぬのがいいか知れない。食パン540円とクロワッサンふたつ320円と明太子フランス170円とチーズフランス160円を買い、税込1285円を現金で払った。クロワッサンとチーズフランスは惰性で買ってしまった。今、美味しく思うのは明太子フランスで、パンの出来がとても良いのに邪道な気のする明太子ソースをたっぷり使うのを潔く思う。

夕飯にPさん宅で予約の何とかサンドウィッチと何とか手毬寿司をご馳走になる。普通味。多分、それなりの出費があった筈で勿体無かった。感想を聞かれて、普通に美味しいと言ってしまった。次があるなら極力引き止めたい。満腹になって何とかチキンを持たせてもらって帰り、歯磨きをしたあと、夜半に一切れ食べた。リステリンと大蒜の匂いがした。シャンメリーが無かったなとか、ファンタプレミアグレープでもよかったなとか勝手なことを思いながら歯を磨き直す。

Pさんになるべく負担をかけぬよう火曜日から木曜日までお邪魔せずにいたけれど、お邪魔したのでシャワーを浴びさせてもらった。死んでもいないのに生き返った。汚れという汚れを洗い流した気がして脳天からの皮膚呼吸を感じた。

初秋には買っていた来年の手帳の封を切る。開くと紙の匂いがして、封をしていたからか、使っていないからか、新しい紙の匂いのように思う。何の匂いだろう。

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