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フォーラーネグレリアオーバーフロー [日々の暮らしで思うこと]

Tuesday, 29th December 2020

正月用の買い物がたくさんあり荷物が溢れるとかで、Pさんはそれぞれ自車で買い物へ行こうと言う。二台連なるプランを示されたが、Pさんは9時20分に、私は9時35分に出発した。私が着く頃には駐車待ち渋滞が起きていて、駐車場へ入るまでに15分かかり、停めたい階の空きが13台にまで減って焦ったけれど間に合った。愛車ニーチェは今月21日に納車されたばかり、安全最優先と注文をつけ、ライトの入切や警告音の鳴る距離などを、全てカローラの担当者に設定してもらった。そのため仄明るい空間を無駄にピカピカ照らしたり、何にも近付いていないうちに警告音を鳴らしたり、私の思いを気にせず好き勝手である。説明書きを読んで再設定するくらいなら少しの考えの不一致は許すつもりで、どこかへ行くたび警告音の言うなりに輪留めの20センチ手前へ停めている。

スパゲティ用に安価なルーミックソースの素ばかりを買っていて、不満はないけれど、何か違うものを試したい。大抵決まったものを売る棚、目当ての商品へ直行して買うので、他にどんなものがあるかさえ知らず、惜しい気がした。スパゲティソースの棚には瓶詰やレトルトのものがあれこれ並んでいた。他を見なければ迷う余地がないが、見渡せば種類が多くて選べない。ついでに見ると左前方に私より先に居たひとが腕組みをして考え込んでいた。うーんうーんと考えていて、ここまで真剣に悩んだなら、彼の選択を私の選択としてもよいのではと思う。勝手に選択権を委任しようとして、散々迷って選んだのがペペロンチーノで、何故ペペロンチーノなの、考え直して正気になってと思う。蟹クリームがどうとか浅蜊がとかアンチョビがとかボロネーゼとかジェノベーゼとかペスカトーレとかあるうち、ペペロンチーノだけは買わぬ決まりで、彼もそうだと信じていた。信じ込んでいた。夢が壊れました。

正月に用のない私は、Pさんより先に買い終わり、先に帰る。安売りスーパーマーケットで二言話したくらいでPさんとは全くの別行動、自由でよかった。09:35出発(48km)、10:12駐車(61km)、11:26出発(61km)、11:53帰宅(72km)、ニーチェの走行距離表示を解明しつつある犬と犬と私、138分24kmの旅だった。遅れて帰ったPさんから昼食に誘われ、Pさん宅で、焼鳥(ひな)、ポテトサラダ、雑穀入り米飯をご馳走になる。夕食用に鶏の竜田揚げとさつまいもごはんを持たせてくれて、29日は鶏と芋の日。

前に灯油を買いにPさんのクルマで連れて行ってもらったところ、Pさんのクルマが灯油臭くなり、何日にも亘り灯油臭いと言われ続け、今後は自車で行こうと決めたけれど、Pさんから新車が灯油臭くなるのは避けるべき、Pさんのクルマは古い&買い換えるかもしれぬから灯油を買うのにぴったりなどと説得され、灯油容器をPさんのクルマへ積み込んだ。Pさんの珪藻土バスマットの返品返金にカインズへ行くと、いつものガソリンスタンドの灯油18Lが1476円のところ、カインズは1350円で、安物を買って珪藻土バスマットの返品に来たことを余所に安い灯油を買った。灯油の入った容器をPさんのクルマへ積むと、こう置いて良いかとPさんが灯油容器を荷台に寝かせた。上部のキャップへ灯油の触れない立てる置き方で漏れたなら、寝かせては益々漏れると思ったものの、良いかと聞きつつ、そう置くと決めている様子があり、クルマの持ち主に言われては了承するしかなかった。そんな置き方の灯油容器はこれまで見たことがない。

途中、公園で小一時間、犬と散歩する。Fさんの素敵な牛の絵を見たり、犬がグルウミングで牛模様のマフラーをもらったり、何か牛づいていると思っていたら2021年は丑年らしかった。びっくりしたなあ、モウとか言うビートたけしを見るだろうか。花壇に葉牡丹で丑年とあるのを見るまで気付かなかった。元号の年や自分の歳なんかも思い出さない。生物として表面的に起こる経年変化に比べ、心の中は然程大きく変わらない。二百歳まで生きても、良くも悪くも、私はこんなふうだろうと思う。

行ったカインズでは事足りず、別のカインズへも行った。買い物を終えて何も考えずに階段を上り駐車場へ出て、クルマがどの辺りだったか一切記憶になく、見回してもクルマが見当たらず絶望しかけて、一階の平面駐車場へ置いたことを思い出した。一階へ停めたことを忘れて二階へ行ってしまいながら絶望するのを止めてよい気はせぬものの、一切記憶がない真っ白な状況から見れば、普段そうすることの多いものを身体が覚えていて勝手に動く、そして一階の平面駐車場と思い出すのは、多少なりとも救われる。救いがないのは寝かせた灯油容器で、灯油にまみれ、極小のナイアガラの滝。ナイアガラの滝は途方もなく大きく、激しく流れるのが水だから名所なので、灯油容器の大きさでは誰も見ず、灯油が勢いよく大量に溢れ出るなら観光以外の用途で名を成す。しょぼしょぼ灯油の漏れた容器など大雑把の証しよりほか何もない。灯油容器を買い換えて解決しそうな気がせず袋小路。灯油ストーブを諦めるしかないだろうか。

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ひとつの病ひとつの衰退ひとつの特異体質 [日々の暮らしで思うこと]

Monday, 28th December 2020

ミルクのようにやさしいダイズという豆乳のようなものを長く飲んできて、ここ暫く飲んでいない。容器にカルシウムとか、まるごと大豆飲料とか書かれていて、何となく健康によさそうで飲んでいたけれど、飲みやすくて身体によいものがあるだろうか。美味しいものは身体に悪いに決まりだと思う。飲みたくないものこそ健康によく、美味しく飲むことができたらそれは毒なんじゃないかな。というか、本当のところ、そんなに美味しくない。野菜一日これ一本もやめていて、どちらも、豆乳にしては、野菜ジュースにしては飲みやすいけれど、飲み物として美味しい気がしない。私には、毒にも薬にもならず、飲む理由がない。毒なら毒、薬なら薬であれば飲むかもしれないし、美味しいならやはり飲む。ぼんやりとした期待だけでは飲めない。

何かに Gothenburg とあって何のことか調べると「Göteborg ヨーテボリ」の英語表記だった。Gで始まる地名が、ヨ或いはイからの発音となるらしい。ヨーテボリは電気バスの移動図書館が走るスウェーデンの港湾都市の名で、VOLVO本社があり、今月末には市内で145台のVOLVOの連結式電気バスが運行可能になるとのこと。電気椅子は座ると電気の流れる刑罰に用いられる椅子だけれど、電気バスは電気を動力として走るバスである。念のため。

スウェーデンとデンマークの合作TV番組に、二国間をつなぐ橋の国境で不審な遺体の見つかるものがあった。上半身がスウェーデン、下半身がデンマークにあって、両国で共同捜査をする話だけれど、日本で国境へ半々に遺体を置く設定なら関門橋だろうか。橋の手前も向こうも日本だった気がするけれど。リオデジャネイロでは夜のクルマの運転には信号を無視せよという伝承があると聞いた。赤信号で停まっていて襲撃されるひとが少なくないから。物騒だなと思って聞いたけれど、同居人は北九州も一緒だよ、夜中に信号待ちなんかしたら、棒で殴られたりお金をとられちゃうと平然と言って、リオかよと思った。行き来に旅券が要るだろうと思った。随分前の話で、今はきっと違うと思うので、日本の国境へ遺体を置くのは諦めよう。鎖国の国のひとだもの。

派生して、フィンランドのひとが珈琲をたくさん飲むと知る。一人当たりの消費量が世界トップクラスで、ドリップしたものを砂糖やミルクを入れず、日に何杯も飲むひとがいるという。ムーミンの昼が昼でないようなどんよりした雰囲気からすると、身体や心を温めたり死にたい気分の転換に珈琲を飲まずにいられないのではと暗い印象の裏付けのように思ったけれど、一転、首都ヘルシンキならどこにいても歩いて三十分のうちに海へ出られるらしい。少しだけ行ってみたい気がしてきた。

MUSEにHelsinki Jamというのがあって、ドラムとベースの見せ場で、私にはMatt Bellamyの休憩時間ではあるものの、ドラムとベースの音が好きなので好き。他にMunich Jam、Houston Jam、MK Jam、Osaka Jamなどどれも好きで、好きながらに一聴で何Jamか判らぬこともある。バグパイプが入るグラアズゴウジャム Glasgow Jam と呼ばれるものは直ぐにわかるし、よい組み合わせでうっとり聴くことができる。グラアズゴウというのは刑事タガートのひとまねこざるでござる。

耳栓はSONYのMDR-XB50BSを割と気に入って使っていたけれど、茶犬が玩具にしてバラバラになったので、同じくSONYのWI-XB400に換えた。音さえ鳴れば構わないので、これも割と気に入っている。耳栓で音楽を聴いてやっと、ひとりで外を歩くことができるので、命綱に近い。どちらも重低音モデルということになっているが、言うほどでもない気がする。茶犬に壊されたもののほうが操作性がよく、ボリュームの調節や曲を飛ばしたり戻したりしやすかったが、今のものは言うことを聞かぬので電源入切以外使っていない。モノを知らぬので常識か知れないが、電源入切で一番電気を消費すると聞くことがあるが、耳栓XB400に関しては使わぬときは切っておくほうが電池が持つ。切れば二日三日持つこともあるけれど、切らずにいると一日持たない。

動物保険の請求を九月分からしていないらしいと判り、明細書が見つかれば四回分の請求が出来る。治療費の七割を補償すると謳っているけれど、一回の上限が1万2千円と決まっていて、であっても手続きをしたら最大4万8千円の給付が見込める。それだけあったらMUSEの珍奇な上着付きSimulation Theory Super Deluxe Film Box Set ¥59,500 (税込) が買える気がする。それよりもマニフレックスのような気もする。本当は犬の治療費にとっておくのが利口だとは思うけれど悲しいまでに利口ではない。

拙宅を選挙区に含む国会議員が街宣車で挨拶回りに来た。与党議員も野党議員もそれぞれ来て、マイクを使って名前を何度も言い、自ら来ていますと恩に着せた。馬鹿が、黙れと思ったけれど、与党議員が「コロナを解決します」と口を滑らせたので、馬鹿に間違いなかった。

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地面から空へ向かって雨が降るとき [日々の暮らしで思うこと]

Sunday, 27th December 2020

犬の歯周病によさそうなものが無いかAmazonを見たものの何もなかった。大抵胡散臭くて信用ならない。動物病院やペットショップで買って使ったことのある、来歴実力を知るものしか買えないという考えが強まった。ついでに見ると6300円くらいで買ったフィギュアが6500円になった。一時は5千円くらいになり辛かった。などと言って顔の再現度が高いと思うだけで、つい買ってしまった事実に変わりなく、いくらになっても要らない気持ち。フィギュアの無人販売、百円と書いて家の前へ置こうか、いや百円はないでしょうと逡巡。

昼過ぎ、少し暖かで、自前のコートオンリー既製服無しの犬と犬と散歩した。途中の歩道で前を電動カートへ乗るひと、後ろを杖を使うひとに挟まれ緊張して歩いた。犬が見慣れないひとやモノに吠えることがあって、様々な事情に容赦ないので案じたけれど、吠えなかった。いつまで持つかわからず逃げるようにローソンへ寄り、auのキャンペーンのおにぎりをもらった。数日前にもクーポンをもらい、指定のそれがなくもらい逃した執念のおにぎりが、今日はこれでもかというくらい仕入れてあった。もらったおにぎりをそのまま上着のファスナー付きのポケットに突っ込んで、散歩を続ける。すれ違うひとたちは私のポケットに焼さけハラミおにぎりがあるなんて思わぬだろうと得意になるけれど、すれ違うひとたちは大抵何も思うことなく、ただすれ違っていくだけである。のんびり40分ほど歩いて帰宅。犬の毛繕いのあと、もらったおにぎりを食べた。金しゃりと書いてあるので少し期待したけれど、全体にべたっと米粒が潰れていて、ごはんが美味しくなかった。あとは普通のおにぎり。お腹が空いていてよかった。食後、本を読むつもりが次々にすやすや眠る犬につられて午睡した。

木曜日の受診後、動物病院にクルマを置いて、犬と犬と歩いた。少し歩くと、こんなところがあったのかと思う土手があり、冒険者の心で初めて見て直ぐ初めて踏み入る。土手であるのに川が見えない。動物病院のある辺りとは一変して寂れた物悲しい景色である。土手の高さに屋根のある平屋の建物は養豚場で、凶暴そうな犬が入り口に鎖で繋がれている。少し緩んだところを限界まで力任せに引く鎖がガシャンガシャンと繰り返し音を立て、犬は大型犬の低く威嚇するかの声でバウバウ吠え続ける。声が豚舎の奥へ響いて戻る。時々平屋の端から白っぽい豚の身体の一部が見える。昼過ぎの空は灰色に暗く、辺りは枯葉枯草生気のない木々一面の荒れ野で、ひとの気配がせず、頭の中には The Smiths の Meat Is Murder が流れて、この世の終わりに立った気がした。白犬と茶犬も何を思ってか静かに、若干ニヒルに立っていた。

同居人の高校の友人には大きな養豚場を営む家のひとがいて、そこでは豚を増やし育て肉の形となるまでを仕事としていたのだけれど、友人の母親がいつからか悪夢にうなされるようになり、やがて目が覚めていても自宅の壁が全て血に塗れて見えるようになり、豚の鳴き声が耳の中で止まず、走り回り叫び続けるなどして困ったらしい。母親はどこからか嫁いできたひとで不慣れだったか知れず、養豚場は何代めかの家業で簡単に辞められない。この話を聞いたときも Meat Is Murder が頭に流れた。私はひとや動物を犠牲に生きているという思いがした。The Smiths は好きだけど Meat Is Murder は好きではなかった。言っていることが正しいと思っても好きになれなかった。似たような思いはあり感化されやすく、聴いてビーガンになってもおかしくなかった。どうしてそうならなかったのか解らない。曲の中に使われる音が露骨で嫌だったけれど、それだけが理由なのか判らない。好きでなくとも露骨で嫌いな音も込みで何かと頭に心に流れる。壁はまだ、壁紙の色に見える。

Pさんが「ショッピングモールへ行くので夕飯に持ち帰り寿司を持ち帰る」という意味のことを言い、ショッピングモールの持ち帰り寿司の好きな私なのでとても楽しみにしていたら、Pさんが悪い方向へ気を遣い、普段よりも高い持ち帰り寿司を持ち帰ってくれた。何してくれてるの、いつものあれが好きなんじゃ、ボケ。と思ったけど、言わずに美味しく頂きました。ご馳走様です。ちなみに、寿司はともかく惣菜は皿へ移したいこだわりも伏せています。美味しい牡蠣フライでした。ありがとうございます。

映画は(関わったひとの名前を出来るだけ丁寧に民主的に書くのか、とても長く親類縁者でも退屈しかねないと思うけれど)、エンドロールも見所という場合がなくはなく、劇場を出るにしろ劇場へ残るにしろ、鑑賞するひとへの配慮を忘れないでください。PG12は小学生には助言・指導が必要というもので、小学生未満は尚更で、助言・指導が必要とされる描写に、また、2時間休憩なしで、集中して静かに見続けられるものかお考えください。それらの愚痴を延々聞かされる者の、物の怪、者の気持ち、いえ、何卒よろしくお願いします。

食べさせてもらえぬのに見せつけられ目がボタン目がボタン

Pさんの家で持参の入浴剤バブを入れた風呂へ入り、家へ帰って髪を乾かした。昼間読もうとして読まなかった本を少し読んだ。心を掴む表現で厳しい世界について書かれていて、しっかり読みたいと思ったけれど、20%くらい読んだところで眠くなってしまった。犬と犬をよきところへ配置して布団と毛布を被って寝た。Twitterで掛布団の上に毛布が温かいというのを秋に見て、以来そのようにしている。誤りでも誰にも迷惑が及ばぬので正しい言説か調べていない。
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ガストロディア・アグニセルス [日々の暮らしで思うこと]

Saturday, 26th December 2020

思うことを整理して書こうとするけれど上手くいかない。気が散りやすく、書き始めに書くつもりでいたことを書かずに次へ移っている気がする。漂流先から瓶で送る手紙にしても混迷が過ぎて誰ひとり解読出来ない、書いた本人の解らぬことを誰が読み解くだろう、埋蔵金の在り処が書いてあるならともかく。明日と書いて、明日という言葉があるのか判然としない。今まで確かに使ってきた言葉だろうかと疑う。老化なのか、悪化なのか、気の迷いなのか、よく解らない。

自分の中に数知れぬルールがあり、例えば、漢字。手書きするときに使う漢字だけを使いたい。変換されたからと無闇に使いたくない。けれど、もう、薔薇という字を書く記憶も気力もないのに薔薇を選んでしまっていて、ルールを破る自分に、他人を見る思いがする。"わかる"は、わかる、分かる、判る、解るなど、自分なりの使い分けがあるけれど、使い分けに従わずに選ぶことをすんなりしていて、誰だお前と思ったりして、実際、誰なのだろう。

灯油ストーブは使っているうちに灯油が無くなり消えてしまう。そうした自然の成り行きを意識せず気にせず暮らしてきた。ひとりでに灯油が足されるものでないことを今更知って、どこのお姫様かと思う。茶犬は灯油タンクの立てる音が苦手らしく、ストーブから灯油タンクを抜くたび気が触れて、これをしないとストーブが使えなくなると説得するとき、知らずに同居人の口調で言っている。一人前の顔をして。

何にしても手本があるのは道筋の見える近道を行くようなもの。自転車を知らずにこれは何かと考えるところから始めるのと、乗っているひとを見て自転車を手にするのとで随分苦労が違うように。独自の自転車の使い道を見つけたい気持ちを持ちつつ、先駆者草分けに感謝する。転。同居人は豚を乗りこなせたらしい。同居人の他に出来るひとはいなかったと聞くけれど、乗りこなそうとしたひとが他にどれだけいたのか。両手で両耳に掴まり背にまたがる。右耳を引くと右、左耳を引くと左に進み、両耳を引くと利きの悪いブレーキとなる。走り出しは腹を優しく蹴る。腹を蹴って優しい訳がなく思う。かなりのスピードが出て、豚は凶暴だそうで、危ないから真似はしないでと言われたけれど、いつ、どこで、どのように。誰が。何故。

Pさんに勧められ、拙宅給湯器が壊れて以来、久しぶりの風呂へ入る。持参した入浴剤バブを放り込んだ湯へ浸かり温まった。Pさんは、空気が乾燥し過ぎだ、雨が降らぬと火事になると言って、自然発火の森林火災的なものが直ぐそこで起こるように案じている。悪くない。けれどCOVID-19感染者増大の最中、私の髪が伸ばす意図なく伸びたのが明白なので切ったほうがよい、専門家の元へ出向いてと主張して、心配の按配が悪い。何処の店だとマスクをしたまま切ってもらえるなどと、割と直ぐにも切らせたがっていて、テレビに耳目が奪われている振りで乗り切った。髪は切らない。

テレビには菅首相が出ていて、酷く顔が浮腫み、膨らむ皮膚が目立つように見えた。他人事ながら体調が気になる。拙宅のテレビを七月から見ておらず、内閣官房長官だったときしか知らず、首相ほど大映しを見ないので元からこういう顔だったのを気付かずにいたかもしれない。会食好きという勝手な印象から忘年会続きの顔に錯覚しているかもしれない。顔色のおかしいシャー・ペイに見えたので、多分、私がおかしい。シャー・ペイは藍色の舌を持つという犬なので。

物事を忘れるのを逆手に取れば、新しい本を一冊も買わずに同じ本を読み続けてよいかに思える。書かれたものは増えるばかりなので淘汰が要るのか知らないけれど、売られているうちに買わないと直ぐに絶版となる感じもあって、全く買わぬ決心は難しい。絶版など読者の不利益は簡単に決めて見えて、誤字脱字などは見逃されがちで配慮が足りなく思う。本に誤りを見つけることは滅多にないことだったけれど、今は日常的にある気がする。どこであっても、全般に、仕事の精度や熱意は大切にされていないように思う。世知辛い。
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レモネード味のゴブストッパー [日々の暮らしで思うこと]

Friday, 25th December 2020

年末年始のATMの稼働を調べず、使わないなら戻すだけと9万7千円を、3万9千円、3万9千円、1万9千円と分けて、生活費の口座から引き出した。1万円をauPayに入金して、残りの1万円札6枚と千円札27枚を表裏上下のバラバラを揃えて、角が折れているものなどを先に使うよう上のほうに集めて、ATM脇からもらった封筒へしまった。すっきりした。千円札をガソリンや灯油に使うつもりで分けて下ろしたけれど、10千円と押せば千円札10枚が出てくると聞いて、次回試したい。変にお手数をおかけして手数料が上がってはいけない。

千円札は漱石から変わった野口英世という感覚でいるけれど、2024年には別のひとになるらしい。紙幣の始まりから終わりを見るのは長生きした感じがある。漱石は胃が悪いのにジャムを舐めたとか、小学生へ書いた手紙とか、あれこれ見て知った気になっている。野口英世は火傷で苦労したことくらいしか知らない。伝記か何かのはじめだけ読んだのだろうか。エドガー・アラン・ポーの顔に似ている気がする。エドガー・アラン・ポーは、確か、貧しい暮らしをしていて寒い冬に毛布に包まる病気の妻を腕の中で亡くしたとあとがきか何かで読んで、そこだけ憶えている。作品を思い出さないので確かにエドガー・アラン・ポーの話かどうか怪しいけれど、野口英世の顔に似ている気はする。

木曜日の白犬の病院代は495円でセゾンカードで払った。動物病院もPayPayが使えなくなっていた。1600円くらいですが保険を使いますかと聞かれて使うと言ってしまったけれど、使わないほうがよかっただろうか。更新時の保険料が増えるかもしれない。初夏に既に使っているから同じことかもしれない。分からない。白犬は私の歯磨きでは改善しないどうにもならないと分かると急に口臭があるように思い、一刻も早く治療をしなくてはならないような気になる。予約の取れたのが二月後半で、そこまで何も出来ないので不安だ。10-0、100-0的思考への偏りを感じる。

月曜日のパン屋へ金曜日に行った。三週連続だ。もう、何曜日のパン屋と言わぬのがいいか知れない。食パン540円とクロワッサンふたつ320円と明太子フランス170円とチーズフランス160円を買い、税込1285円を現金で払った。クロワッサンとチーズフランスは惰性で買ってしまった。今、美味しく思うのは明太子フランスで、パンの出来がとても良いのに邪道な気のする明太子ソースをたっぷり使うのを潔く思う。

夕飯にPさん宅で予約の何とかサンドウィッチと何とか手毬寿司をご馳走になる。普通味。多分、それなりの出費があった筈で勿体無かった。感想を聞かれて、普通に美味しいと言ってしまった。次があるなら極力引き止めたい。満腹になって何とかチキンを持たせてもらって帰り、歯磨きをしたあと、夜半に一切れ食べた。リステリンと大蒜の匂いがした。シャンメリーが無かったなとか、ファンタプレミアグレープでもよかったなとか勝手なことを思いながら歯を磨き直す。

Pさんになるべく負担をかけぬよう火曜日から木曜日までお邪魔せずにいたけれど、お邪魔したのでシャワーを浴びさせてもらった。死んでもいないのに生き返った。汚れという汚れを洗い流した気がして脳天からの皮膚呼吸を感じた。

初秋には買っていた来年の手帳の封を切る。開くと紙の匂いがして、封をしていたからか、使っていないからか、新しい紙の匂いのように思う。何の匂いだろう。

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突然ですがメリークリスマス [ずっと、ずっと、前のこと]

Friday, 25th December 2020

私がマフラーを贈るなど気のあるように見せ、何故か同居人から付き合ってと言われ、その場でいいよと答えて付き合い始めたのだけど、軽々しくいいよと言った理由が今になっても解らない。私は他のひとと同じように暮らすことはできぬものと自覚していた。普段の感覚であれば、断るか、考えてみると曖昧にするかした筈である。どこかに、このひとならと思う何かがあったのだろうか。

早々に同居人が結婚を口にしたのは、私が抱える問題を伝えたあとで、普通のように暮らすことが出来る、全て引き受ける、そんな宣言だったのかもしれない。それを聞いても、指輪を買わせても、まだ自分の気持ちがはっきりしなかった。クルマで送ってもらうと、家の近くで暫く話をするのだけど、ある夜、同居人と私で考えの合わないことがあった。私はクルマのドアを開けて、帰るねと言って降り、続けてドアを閉じながら同居人にも帰るよう言った。家へ入ると同居人のクルマの走り出す音がして、私は急にどうしようと慌てた。普段通り帰っただけで、その前に私が機嫌を悪くしたに過ぎず、慌てる理由はないのだけれど、二度と会えないのではと思った。そんなことは極端な思い込みなのだけど、二度と会えないのは困ると思った。玄関を出て、クルマを停めていた辺りへ戻ると、同居人のクルマも戻ってきた。言い争いのままにするのはよくない、考えが違っても話し合おうと言われた。またねって言い合えるようにしようと言われた。私は安心して、うん、と言って、このとき、初めて、同居人を失いたくないと思った。

三月の終わりには同居人が近所へ越してくることになり、その手続きを口実に実家から出て来た同居人母と会った。不動産屋には同居人と母と私の三人で会い、もう、いつ同居しても構わないことになっていた。私は段々自分の家へ帰る日が減り、五月半ばには同居人の部屋に住んでいた。同居人と私はそこで二年半ほど暮らして、同居人母のお告げがあって、婚姻届を出した。それが、十二月二十五日。かつての友人マキちゃんが走るクルマの前へ飛び出してくれて、同居人へマフラーを渡した日から三年めのことだった。

誰しも、運命の分かれ道の連続で今があるに違いないけれど、同居人と出会った勤務先で私がアルバイトを始めたのは時給が高かったからで、他に条件のよいところがあれば他へ行っていた。同居人が電気技師と美容師の両親の間に生まれ、耕す土地もないのに農業高校へ行ったのは、米国へ行って農民になるつもりでいたからで、米国で農民になっていたら、多分、会うことはなかった。同居人が実家を離れたのは実家にいては暴力団員となるに違いないと同居人母が友人からの隔離策をとったからで、預けた先の同居人伯母の働く米軍基地が私の住む地域にあった。放逐されなければ、別の基地なら、話は変わるし、そもそも伯母が米軍で働くのは英語をネイティブに劣らず使えるからで、同居人父と伯母は米国生まれ、そこに留まっていれば父と母は会わず、同居人は生れていない。様々な条件をするするすり抜けて出会った、奇跡的に出会った、そう思う。

何より奇跡と思うのは、私を受け入れるひとがいたことで、同居人とうまくいかなければ別のひとというようなことは考え難い。私は私の思うように生きたくて、望まぬことは何もしたくなかった。相手が誰でも性的関係を持ちたくなかった。自分の中ではこれ以上ない勇気を出して同居人へそう言うと、大丈夫だよ、大したことじゃないと言った。途中で考えが変わるようなことにはならない決定事項だと付け加えても、大丈夫と言って、私は大丈夫な訳がないのになと思っていた。付き合おうと言った手前、では、さようならとは言い難いのではと思っていた。

本当に大したことではないと思っていたのか、何か信念があったのか、解らないけれど、同居人母から籍を入れるまでは子どもを作らぬように言われると、そういうことはしないんだと普通に答えていて、隠すことでもないと考えているらしかった。何をどう言おうと母には理解できない話で、兎に角気をつけなさいと言われた。二十代の交際中の男女が一緒に住んで友人や兄妹のように眠るなんてことは私自身も無いものと思っていたので、母が解らなくても無理はない。

同居人にはどうしてと聞かれず、私がどうしてと聞くこともなく、これといった不自由もなく暮らしてきた。時に、私の身勝手で同居人を不幸にしたのではと考えることもあったけれど、同居人は彼自身の脳味噌を装備しており、その考えで選んだことなのだから、必要以上に悪く考えるのは却って同居人の存在をないがしろにするように思う。こうでなくては、とか、こうあるべきということを思ったり言われたりするけれど、他のひとはどうしているかなんてことは置いておいて、自分がどうしたいかが解れば、割と自由に楽しく暮らせる。こともある。

子どもの頃、何になりたいか聞かれて、返事に困った。私は何にもならず、私でいたかった。同居人がいてくれて、その夢が叶った。会えてよかった。
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迷わずに来た仔羊の災難 [犬のこと]

Thursday, 24th December 2020

昼間、白犬を動物病院へ連れて行った。火曜日に茶犬の主治医から早めの歯科受診を勧められたため、日頃通う動物病院へ行った。茶犬主治医の見立て通り、スケーリングが必要との診断で、この小さな生き物に全身麻酔かと申し訳なさが募るのだけど、話はそれに済まず、スケーリングには通常、抜歯が伴うとの説明があった。どうしても抜くものか訊くと、状態が悪いまま残してはスケーリングの効果が充分に出ず、再発や別の病気に罹るとのことで、思った以上に深刻だった。奥歯犬歯は大丈夫、前歯は抜くだろうと言う。考え込んでいると獣医が抜かない治療をご希望ですかと聞いてきて、全身麻酔までして再発の可能性があるなら抜いてもらうしかないと答えた。そう言いながら、本当にそれでよいのか迷いがある。何にしても自分が許せない。心を読み取ったかのように、獣医が、歯磨きをしていても起こることなのでと慰めを言った。

白犬と言っているけれど、血統書上はクリーム色で、今もよく見ればクリーム色で、ペットショップで同居人の選んだ犬である。犬が同居人を選んだとも言える。ペットショップでは、毛の抜ける犬と伸びる犬がいてトイ・プードルは伸びるタイプだとか、プードルは全犬種で二番目に賢いというような話を聞いた。後で調べて、乳のみごのときに尾を切ると知り、同居人は動揺した。自分の愛する犬が酷い目に遭うのは彼の苦しみらしかった。それが過去のことであったとしても。白犬の少し長めの尾に触れながら、もしかしたら切ってないんじゃないかなと聞いてくる。先が自然な感じなんだよなどと言って。私には急に途切れる気がしなくもないけれど、だといいねと答える。同居人が信じたいことを無邪気に無防備に信じていてほしかった。

そんな溺愛の白犬にこれから起こることが極めて過酷で、時に耐えられる者だけに耐えられるだけの試練が与えられるなどと見聞きするけれど、私は全くの無能力な弱いにもほどがある人間で、どのような試練にも耐えられない。はっきり降参ですと白旗を上げている。なのに、何故。簡単に言えば、神がいないから。そのように他者のせいにするのが駄目なら私が至らぬから。代われるものなら代わりたいと言うのは代われないと知ってのことに聞こえるけれど、本当に代わりたい。私が代わって、同居人と白犬と茶犬を助けたい。どうにかならないだろうか。と、嘆いても神頼みしてもどうにもならぬだろう。反省点を言えば、巧く磨く自信がなく、ブラシが360度を覆う歯ブラシを使っており、歯の根本に45度の角度で当てることに向いていないかもしれない。小さくやわらかなブラシで歯茎をやさしく丁寧に。日々の五分十分がどれだけ大切か。何事も意識してすべきだったと思う。

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白犬は幼いとき、背中に大きく茶色の毛の十字があって、十字架を背負うオトコと呼んだりしていた。茶犬と喧嘩になると、命を狙う、完全に仕留めにかかる動きに、ホワイトデビルとも。クールさを装う気取り屋でいたけれど、この頃はさみしさを隠さずいくらでも甘えるようになった。どんなときも愛する小さな授かりものである。平謝り。
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地球儀の鉛筆と蝋人形の塔 [日々の暮らしで思うこと]

Wednesday, 23rd December 2020

水曜日はプラスティックゴミを捨てる日だけれど何も捨てなかった。13:20から13:45まで犬とのんびり歩いた。途中の無人販売所で葉付きの長い大根と大きめのブロッコリーを買い、現金200円を工具箱へ払った。工具箱には貯金箱のような硬貨を入れるに丁度よい口がある。販売所により、竹筒、大きな湯呑み、ザル、木箱、豚の貯金箱などが置かれていて、そこへ代金を払う。大根は気を抜くと路面を引き摺る長さで、ブロッコリーもそこそこ大きく、ふたつを抱えるとずっしり重い。犬よりずっと重い気がする。

早く家へ帰ろうと歩いていると、水道工事。警備員のようなひとへ右へ曲がれぬか聞くと返事をせず、誘導する棒のようなもので下がれと追い払う仕草で、通れぬものと思い迂回した。家まで100m弱が500mに延びた。通れないなら仕方ないわねなどと犬へ言って、回り道して来ると、曲がりたいと言った道は何ら工事に関わりなく、ひとが普通に通行している。手前にも警備員らしきひとがいたので何をしているか訊くと細い道なのでクルマが入ると支障が出るため誘導していると言う。あちら側のあのひとに通れないか聞いたら棒で追い払われたので回り道したんですけど、通れますよね、何なんですかと言うと、すみませんとか悪いことをしましたとか謝られた。あなたが悪い訳ではないのでいいです、でも、あのひとはおかしいと思いますと言って帰った。

不平不満を言わず穏やかに暮らしたいと思いながら、上手くいかない。修行が足りない。何の修行もしていない。誘導棒のようなものを持つと偉そうになるひと、棒で指図するひとなどが苦手。誘導灯を点滅にご注意くらいフラッシュさせたい、棒を取り上げてキャンプファイアにくべたい、代わりに剥いた山芋を持たせたい。

アラビックヤマトノリはダラダラ出て、直ぐに固まり、キャップの外へ零れてべたついて、使いよい気がしないけれど、どこの事務所も使っているように思って、営業が上手いのだろうか、単に私の使い方がなっていないのだろうか。トンボ鉛筆のスティックのりPITが使いやすいと思う。リップクリームのように繰り出して余計に出ることなく小さく持ち歩きにも便利だ。出かけていて糊の要ることなんて、あまりないけど。

カローラと花王に何かあるのか分からないけど、エアバッグのリコールのときも今回も台所洗剤キュキュットをくれた。私はライオン。百獣の王でなく。CHARMY MAGICA 速乾プラスを使っていて、昨年エアバッグのときにもらったキュキュットがまだある。使わないのでと断ればよいけれど、紙袋でくれたものの中身をその場で調べたりはしないので仕方ない。今回は入浴剤バブも入っていた。給湯器を交換したら使いたい。いつのことやら。今みっつ、頑張る気力がないけれど、給湯器安売りチラシの有効期限が1月15日で、間に合うといいなと思う。いっそ、交換するまで風呂断ちするのも一考。

マスクが常態化しているので大蒜が苦手ながら餃子とか麻婆豆腐とか食べ放題ではと思っていたけれど、大蒜の匂いはマスクを通過する。とても大蒜臭いひとがいて、とてもとても大蒜臭かったので間違いない。というか、マスクで匂いを防ぐことは出来ないと思う。防虫剤の匂うコートのひとが、ひと冬に何人かいると思うけど、マスクをしていて今冬、二人に遭遇している。虫と弱点が似ているのか、防虫剤の匂いで頭が痛む。匂いに対してマスクは全く無力である。私が勝手に期待したに過ぎぬが。

確か、栗の入ったフラペチーノがあって、十月になったらと思っていたら九月で終わって、大学芋フラペチーノを十一月にと思っていたら十月に終わるなど、私の季節感とスターバックスの季節感が合わない。イチゴとか抹茶とか興味ないなと思うと、長く売っている気がする。そんな具合でベリーベリーレアチーズは買えて、抹茶は要らない。アールグレイハニーホイップは試したい。

日曜日に買った化粧水を買い物袋へ入れたままだったのをようやく取り出して、これまで使ってきた化粧水の横へ置いた。これまで何ともなく使っていて、残り少なくなっただけなのに、隣へ新しい瓶を置いた途端、役目は終えましたさようなら、というように古い化粧水のキャップが壊れて閉じなくなった。そんなこともちょっとさみしい。
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完全花不完全花 [日々の暮らしで思うこと]

Tuesday, 22nd December 2020 追記

火曜日の茶犬の病院代は16916円でセゾンカードで支払った。毎回3万円を超える病院代は免疫抑制剤の値段の高さが一因で、今回は今までの余剰が積もり28日分あったので予備に7日分だけ処方してもらったため控えめな金額となった。家畜病院は保険の清算が窓口でできず、明細書などを保険会社へ送り、手続きしないと給付金が出ない。ここ何回かその手続きをしておらず、全額支払ったままである。何でも失う暮らしで家畜病院の明細書が見当たらない。通常、手続き書類のコピーを残しているがそれも見当たらず、いつまで手続きが済んでいて、いつから手続きが要るのかすら分からない。どうしたらちゃんとできるのか分からないし、ちゃんとしたいのかどうかも分からない。クルマを買ったのもお金をドブに捨てたかったのではと思う。多分これは気持ちの振り幅での混乱と思うけど、そうなら戻し方があるとか気楽だとかではないので、簡単に言えばちょっとつらい。

病院の帰りに農産物直売所へ寄り、ピリ辛おこわ(山菜、蒟蒻、人参入り)324円と大蒜無し餃子400円とガーベラ350円と薔薇400円を買い、1474円をauウォレットで払った。餃子はまあまあで、おこわは蒸気を吸って美味しくなかった。前にもあったなと思い出して、どこかで作ったものを運んで来るので運びたては良いけど遅いのは駄目らしいと考える。正午過ぎにはおこわを買わぬこと。

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新しいクルマの表示パネルの表す意味と操作が把握できていない。みかんであれば走行距離が常に表示されていたので出発時到着時にそれを撮影していたけれど、そういう使い方がまだ分からない。写真を撮らずに距離を教えてくれそうにも思う。病院を出たのが11:48で、そのとき22kmとあったのがそれまでの走行距離数なのだろうか。帰宅時22kmに10kmプラスくらいの数字を探したけれど見つからなかった。マニュアルを読むべきか。面倒くさいな。12:09-12:21は農産物直売所にいて、12:44に帰宅した。

このところ外から帰ったあとの犬の毛繕いはマスクをしたまましている。ただいま!と帰宅すると邪魔なマスクを一刻も早く外したくなるけれど、軽い咳がなかなか止まらないので、駄目かもしれないところを変える一環として、犬の四肢の葉っぱや種や枯れ草に土埃が付いているので試している。

ユニクロのブラタンクトップの説明書きに、足から着て上へ引き上げるというようなことが書かれていて、長年使って初めて気付いたと思った。過日、そこへ書かれていた通りに着ると着易く、そして、身体の感覚としてこの着方は前にもしていたと思った。一度や二度でなく習慣として。どこかで面倒だったか何かで頭から被り、何回か被り続けて正しい着方を忘れた気がする。何の証拠もないけれど、誰かに証明すべき話でもない。

その日の暮らしが儘ならぬひともいるのに、仕事もせずふらふらして、住む場所があり犬もいて、充分長生きして、これ以上を求めるのは図々しいに違いない。それでもパニック発作や頭の混乱があると誰かに助けてほしくなる。大丈夫だよと言われたく思う。甘えだと思う。おかあさんやおとうさんらしきひとと幼く小さなひとを見るとき、子どもがいていいな楽しそうだなとは思わず、おかあさんがいていいなとかおとうさんがいてうらやましいなと思ってしまう。子どもの立場で見てしまう。両親らしきひとが自分よりずっと歳下に見えても。そう思ってしまう自分を許せたり、異常だと責めずにいられるとよいのかもしれない。分からない。
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フローズンウルフパピーマミー [犬のこと]

Tuesday, 22nd December 2020

茶犬の通院日で家畜病院へ行った。今はそう名乗っていないけれど、門柱の銘板には家畜病院と書いてある。ウィンナーか何かの原材料に畜肉とあるのを見たときに似て少しドキッとする。茶犬はC反応性蛋白に大きな改善があったものの白血球数、好中球数、好塩基球数が継続して基準値外だった。薬が効いているようだけれど、安心はできない。寒くなっても関節の症状が殆どない、と言うと、寒いときに歩かないのがよくはたらいたと思うとのことで、サボった気でいたものの、現状通り昼の暖かい時間に少しの散歩がよいらしい。体重は3.78kgで先月比-100g、腹ペコちゃんに化けたのに太っていなかった。腹ペコちゃん具合が少し落ち着いてきて、常に空腹から、一日のうちで何回か超ガツガツくらいになっている。前回受診から嘔吐はグルウミング翌日の一回だけ、検査数値を除けば安定して見える。

ついでにと四年通うよしみで白犬の歯を診てもらう。やはり、早めの歯科受診を勧められた。大抵真面目に歯磨きをしてきたけれど、私自身に余裕のないときなど歯磨きペーパーで済ませてしまうことが少なからずあった。ドライフードだけならともかく、肉や野菜をあげているので、より丁寧な手入れが必要だった。真面目な歯磨きと言っても、私は不器用で白犬は歯磨きが嫌いで、部位によっては不充分かもしれない。もっと早くどうにかすべきだったと落ち込むけれど、九歳ならスケーリングの全身麻酔も躊躇しない、年齢が上がると危険度が増すと聞いて、これから出来ることをしていくよりない。ちゃんとした面倒の見られる人間でなくて犬に申し訳ない。

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2011年の11月頃、Pさんの買い物で普段あまり行かないホームセンターへ行き、通りがかりのペットコーナーに犬を見て足が止まった。どれだけ自惚れているのだと思われるに違いないけれど、そこにいたポメラニアンがあまりに私にそっくりで、びっくりしたのだった。ちょっと勘違いかもしれないけどと断ってからPさんに「あのポメラニアン、私そっくりに見える」と言ってみた。否定されるなり馬鹿にされるなりあって当たり前なのに「どこをどう見てもそっくり本当にそっくり」と同意された。帰宅して、同居人へ、私によく似た感じの犬を見たと話して、一緒に見に行くことになった。同居人も私にそっくりだと言った。

犬と暮らしたいという希望はずっとあって、でも、世話や躾が出来るのか養っていかれるのかを考えて決心出来ずにいた。けれど、自分そっくりに見える犬が真っ黒な目で私を見つめるとき、これは、と思う。奇跡か、運命か、何を馬鹿な。ひとりで思ううち同居人が、このコはウチで暮らす以外ないんじゃないと言った。うーん、犬と暮らしたいと思ってきたけれど、シェパードとかラブラドールレトリバーとかとフリスビーをするイメージを思い描いていた。ポメラニアンか、私にそっくりの。同居人と見に行くと決めた時から結果は見えていた気がする。それでもちょっと考えてみようと言って、一旦家に帰った。いつかは犬をと考えていたのだし、あの犬は何処にでもいる犬とは違うし、大型犬の運動量を思えばフリスビーしたいだけで迎えるのは無茶だし、というようなことを話し合って、間違いないように思い、ポメラニアンと暮らすことにした。

翌週、ホームセンターへ行ってポメラニアンが欲しいと言った。ペットコーナーで対応してくれたのは最近責任者になったばかりという二十代半ばくらいの女性だった。確か、風邪っぽい気がする、赤ちゃんなので様子を見たい、直ぐには渡せないから二週間くらい待ってほしい、内金を払えば売約済みと出来るけれど、そうでないときは他のひとへ売るかもしれないと言われた。こちらとしては決定事項なので内金一万円を払った。払うとき、このお金は解約となっても返金できないとの説明があった。そんなことは起こり得ないとすっかり家族のような気でいた。

二週間が経とうとする頃、咳と鼻水が続くと一週間延長の電話があり、数日後には下痢があると更に延び、様子だけ見に行くと膝関節と股関節に異常があるようだと言われる。いつ引き取れるか決まらないまま、しゃっくりがとか頭蓋骨がとか具合のよくないところが増えていく。もう家族なのだから見捨てる訳にはいかないと思いつつ、私に面倒を見られるのか不安な気持ちが膨らんでいって、何をどうするのがよいか解らなくなった。それで犬のことならと思うひとに相談した。あっさり、普通なら飼わない、そう言った。本当は自分でそう決めるべきだけれど、出来なかった。それを見越して言ってくれたのかもしれない。同居人にはこういうひとがこう言っていると伝え、話し合い、ポメラニアンを諦めた。苦労を逃れた選択なのに悲しさがあった。責任者になったばかりのひとが責任感から不都合なことも全て教えてくれたものと思うけれど、引き渡す日がいつまでも決まらなかったのもただの善意だったのか、よく分からない。

同居人は犬と暮らしたことがなく、相当楽しみにしていて、犬が来ないと決まると気の毒なくらいがっかりした。それを見て、ラーメン屋のマスターが何処其処に評判のペットショップがあると教えてくれた。直ぐにふたりで行ってみて、ポメラニアンはいたものの、思い入れのあるポメラニアンのあとで心が動かなかった。あんな子はそうそういないね、そう言って帰ろうとして、店員がトイ・プードルはどうですかと言ってきた。誰も彼もトイ・プードルを連れている気がして、流行りの服を着るかのように犬を選べない、そう断る。でも、可愛いですよと言って三匹の仔犬を見せた。ちょっと抱いたり撫でたりして確かに可愛かった。消沈していた同居人も楽しそうである。終いには、どうしようかなと迷い始めている。連れて帰りたいのか聞くと頷く。仔犬を抱かせてその場の気分の高揚で買わせようとするのは良心的でないと聞いており、今ここで決めるのはよくない気がする。けれど犬を抱き可愛いと喜ぶ同居人に、今日はやめておこうと言えなかった。

犬が来ることは決まっていたのだし、同居人が気に入ったならその犬と暮らせばいい、そう思った。それでもう、どの子を家族に、そういうところへ話が進んだ。同居人に抱かれるとおとなしく腕の中に収まる甘え上手なクリーム色の犬がいて、同居人は明らかに嬉しそうで、どう見てもその犬に決まりだと思う。けれど、同居人は頭のおかしい感じの暴れん坊な茶色の犬を私が気に入っていることに気付いていた。そして、二匹とも連れて帰ろうと言い出して、それはどうかと思うと言ったのだけど、もう既に一匹失った虚しさがある、更に失う理由がない。どちらかを選んで暮らしても、何かあるたびもう一匹はどうしているか思うに違いない、犬を見るたび誰かを我慢させたと思うのは馬鹿らしい、それぞれに気に入った犬がいるなら、どちらも家族にすべきと言うのだった。理屈としては解るけれど、経済的に成り立つのか疑問だと言うと、今までもどうにかなったし、これからもどうにかなる、大丈夫。と根拠なく、でも自信ありげに言った。大きなお金が動くとき、同居人は大抵こんなふうに楽観的に決める。苦労はあるものの、確かに破産せずにいて、得たものは手にできてよかったと思うものばかりだ。それでクリーム色の犬と茶色の犬とを家族にしようと決めた。

犬には断る権利もなく、ウチへ来ることになった。さすがにファストフードのようにその場で持ち帰りとはならず、一週間後だったか十日後だったか忘れたけれど、2012年1月15日に連れ帰ることとなった。拙宅から私鉄の駅近くまでクルマで出かけ、私鉄へ20分くらい乗り、ペットショップへ迎えに行った。フード、おやつ、玩具などをもらい、保険加入の手続きをして、犬の入った箱を受け取った。箱はスヌーピーの家を小さくした形で、犬小屋型と言えば早いか、青い段ボールで出来ており、屋根の部分に横に広い楕円の穴があって持ち手となっていた。犬と暮らすことが夢のようなのだけど、犬を紙箱へ入れて電車に乗るなどということは想像もしなかった。そして、箱の犬、暴れん坊と思った犬は箱の中でおとなしく、ちゃんと生きているのか、空気穴を何度も覗き込んだ。おとなしく同居人へ抱かれた犬は大層暴れて、降りる駅へ着く前に箱へ大きな穴をつくり、駐車場のクルマへ行くまでに穴からすっぽり頭を出した。豹変した犬に、私が、猫を被っていたのかなと言うと、同居人はそうまでしてウチへ来たかったんだよねと犬の頭を撫でながら白い息で言った。小雨に雪の混じる寒い日だった。
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