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美しくて白い牡牛の波乗り [日々の暮らしで思うこと]

Friday, 8th January 2021

Pさんの家で寝起きして家に帰りたい。昼間、家へ戻り、花の水を換えたりして心が随分落ち着く。旅行から帰ってウチが一番などという台詞を冷めた気持ちで聞いていたけれど、今は心底わかる気がする。それでも、すっかり体調がよくなるということがなく、弱気が続いてもいて、書き置きを書き直したりしている。従前、犬の面倒をみてほしいと書いてきたものを細分化して、薬はこのようにとか、保険の請求はこうとか書いてみて、誰がこれを引き受けるか疑問である。死ぬ気でいた五年前なら犬も五歳前で、新しい環境に順応できたかもしれない。今は九歳を過ぎて大きな変化は厳しく思う。犬と一緒に過ごしたい、そのことのみで生き延びるべきと思う。私が思って叶うことか知らぬけれど。

カローラの担当者から書類を作りに来店をとの電話があり、一週間くらい前に発熱したけれど行ってよいか聞くと確認したいとの返事で、次の電話で担当者がこちらへ来ることになった。担当者が郵便受けへ書類を置きクルマで待機、私が受け取り室内で署名捺印後郵便受けへ戻し室内へ、担当者が郵便受けから書類を回収という直接会わない方法で執り行う。書類そのものには双方で触れるため気になるもマスクの着用、手のアルコール消毒にて済ませた。カローラからの作成書類には朱肉と押印ゴムマットと年賀ふたつが添えられており手抜かりがない。これで一か月点検の日程調整も済めば万端整うものの体調次第になるかと思う。

小学校へ上がったかどうかという頃に夏祭りでスイカ割りをした。祭りの格好をした大人に手拭いか何かで目隠しをされ竹刀のような棒を渡された。前を見ると目隠しがズレていてスイカが丸見えだった。祭りのひとに目隠しがズレていますと言って二回直してもらったけれど、まだ前が見えて、もう一度見えますと言うと面倒になったのか、そのままやって大丈夫と見逃された。見えるスイカを割らないのも難しく、棒でスイカを叩いた。棒は弾かれスイカは上手く割れなかったけれど、当たりは当たり、クジを引かせてもらった。クジで引き当てたのは大人が履くであろうサイズの踵の高い白い靴で、いつか履くときが来るまでしまっておこうと父に言われて箱ごと靴箱の隅に置かれた。大人になったら履く靴のあることが楽しみだった。靴は転居や何かで履くときが来る前に有耶無耶になった。

その踵の高い靴を失ったからということではないが、踵の高い靴を殆ど履かない。多くのことを自己流で凌いできた。社員として働いたのは製造業の品質保証部門で主に外注先とのやり取りであるが名刺を持たされるくらいにはひとと会う機会があった。それでいて化粧せずに出社する日が少なからずあり、お茶くみを拒み、ひとりで女性社員の処遇改善を求め、頑なであった。兄弟で働くひとは数組いたものの、夫婦で働くひとはなく、結婚すると一、二か月のうちに女性が辞めていった。同居人と私が婚姻届を出すと、やがて私が辞めるに違いないと思うひとも多くいて、辞めないでいると嫌がらせがあった。上司に理解があったことと就業規則を盾に乗り切った。今では結婚後も辞めずにいるひとが普通にいて、私が苦労して切り拓いた道だよと勝手に思う。今していることに威張れるものが皆無で許されたく。

中途半端な田舎へ引っ込んだせいか、祭りなどが貧弱である。山車が無いのか、引くひとが無いのか軽トラックの荷台で太鼓を叩き、さっさと通過して行く。うるさくなくて結構だけれど。一日中どんどこどんどこ太鼓の音を流していた至近のパチンコ屋が太鼓の音を鳴らさなくなった。太鼓の音を流し続ける理由も、鳴らさなくなった理由もわからなかったけれど、COVID-19警戒下にあって大っぴらに開店していると嫌がらせがあると知り、密かに営業しているつもりかもしれないと気付く。ということは、どんどこ鳴らして開店中と知らせていたとも考えられ、スピーカーを使いながら原始的なお知らせを行っていた可能性が出てきた。狼煙を上げるのと変わりなく、そのようなものを合図にと面白く思う。合図を聞いた合図に、客の皆さんには、石で出来た棒状の武器を携え、片方の肩紐だけある毛皮風チュニックなどで通ってほしいと願う。
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ゼブラフィッシュの膨らまぬ浮き袋

Thusday, 7th January 2021

Pさんの家で寝起きして、家へ帰りたい。体力の無さが怠さ息苦しさを呼び起こすように今更思う。回復したなら、これまでより真面目に筋力なり運動能力なり、改善したい。自宅へ戻りマスクを手洗いして干し、犬と犬と最短コースの散歩をして、Pさん宅の洗濯機で身の回りのものを洗濯して干した。

人は女に生まれるのではない、女になるのだという言葉は、周囲の在り方によりそこへ導かれる或いは追い込まれる感覚と思ってよいのだろうか。その一文しか知らず、書いたひとの考えを知らない。私は自分が確かに女性なのか、判らなかった。今も確信してはいない。小学生のうちは、今に男になると信じていた。いつか勝手になると考えていて、そうなってこないからと悩んだり苦しんだりはしなかったけれど、習字の道具入れや体操服など、女子はこれと決められたものは使えなかった。男子のものを選んだり、全く別のところから持ってきたりした。小学生にはよくあることなのかもしれないけれど、何度か転校しても、学校中にそうしたひとは他にいなかった。何であれ、流れに身を任せる、決まり通りにすることがあまりできなかった。できないからと、決まりを無理矢理押し付けられることもあまりなかった。父がいなくなったからか、年齢なりの変化か、何かの諦めか、中学校の制服は女子生徒のものを然程嫌悪せずに着た。

ヒロミちゃんはひとつ年上の女の子で私たちの住む社宅のようなものに両親と兄と四人で暮らしていた。父と一緒に働く指の数の足りないひとの子で、学区内の私と同じ学校へは行かず、別の小学校へ通っていた。小学校一年生の終わりか二年生のときだった。小雨の降る日、空き地に置かれた廃車の運転席と助手席に乗って遊んでいた。初めは仮想のドライブをしていたと思う。中途で「いいことがある」とヒロミちゃんが言い、運転席の下から茶色の瓶を出した。コーヒーに入れるクリーム色の粉、クリープの瓶だった。ヒロミちゃんは着ているものを全て脱ぎ、瓶から粉を手に取り雨で湿らせて身体中に塗り伸ばした。何度も繰り返してクリープを塗り、うっとりしていた。何をしているのか、見ていてよいのかわからなかった。ヒロミちゃんはうっとりから冷めると私に「ひねちゃんは秘密を知ったから、もう普通には結婚できないから」と言い、わかり切るより先に「大人になったら夜のお店で働くしかないの、憶えておいて」と続けた。ヒロミちゃんは一連の行為を「え」と呼んだ。「えっちごっこ」の「え」と聞いて、薄々そういう何かと思っていたのが確からしいとわかる。この後、何度か「え」をやるからと誘われたけれど断った。ヒロミちゃんも、その行為も、普通には結婚できない云々言われたことも全部嫌で、自分で選んだことでないように思った。それで自分の何かが決まるとしたら酷い話だと思った。大抵何でも父へ話していたけれど、このことは父に言えなかった。

その少し前に近くに住む同じクラスのモチヅキ君と竹藪で迷子になった。竹藪と言っても幅5mくらい長さが20mくらいのものだと思うけれど、背の高い竹に囲まれて方向感覚を失い抜け出せなくなった。よりによって、そんなときに私は尿意を覚え、暫く我慢したけれど限界を感じ、モチヅキ君にその旨伝えた。そして直ぐ傍にいても困るけど、できれば近くを離れないでほしいとも言った。竹藪にひとり残って戻れる自信がなくての切実な頼みだったが、モチヅキ君はやだやだ絶対いやなどと言ったあと、ひゃあーーーとか悲鳴を上げて逃げ出した。その時は薄情なひとだと思ったけれど、モチヅキ君がヒロミちゃんに何かされたのだと思えばわかりやすい反応に思う。そう考えて自分がヒロミちゃんと同じように思われたかもしれないと思うと悲しかった。

同じ頃、子どもにいたずらをするひとがいるという話があって、公園でブランコに乗っているところをずっと見ているひとがいて怖かった。新聞を小脇にサングラスをかけていただけのひとなのに、外を向いていた爪先が私のいる方向へ変わっただけで緊張した。大人のひと、男のひとには、大抵、力では勝てないと知っていた。抑え込まれる感覚は抑え込まれたことのないひとにはわからない恐怖だ。

小学校へ通う前、台風か何かで、住んでいた社宅のようなものの居住者全員が水や食料を持ち寄り、同じ部屋で寝たことがあった。十歳以上年上の奥さんのいるチンピラみたいな男がいて、私の隣りへ寝て、避けても避けてもお尻を撫でられ続けた。何か意味のあることなのか、犬を撫でるようなことなのか判らず、何も言えなくて、ただただ避け続けた。その時その場で何も言えなかった自分が悪いと思い、誰にも何も言わなかった。

六年生のお楽しみ会のようなとき、机を教室の端へ寄せて、それぞれに床へ座っていた。彼方此方の同級生たちに声をかけたり、肩を叩いたりしていた担任教師が私の正面に膝をついて座った。十秒くらい私の顔を見て、駄目だと言った。続けて、ひねにはオンナを感じてしまうと言った。吐きそうな、泣きたいような、怒りたいような、よくわからないけれど嫌な気持ちがした。褒めたくらいのつもりらしかったけれど死ねばいいのにと思った。卒業して何か月も経たぬうちに友人と一緒にいて再会したが、友人にだけ話しかけて、私のことは忘れたようだった。演技だったのか本当に忘れたのかわからない。私は私で二度と話したくなかったので都合がよかった。

中学校は自転車通学で朝から度々露出魔が出た。避けて通り抜けることもできたが、時にはハンドルを掴まれ絶体絶命と目を閉じることもあった。見せたということで納得するのか、警察を呼ばれないためか、それ以上のことはせずにいたけれど、だからと言って安心できるものでなく、詮無く交通量の多い跨線橋を猛スピードで走り抜ける登校方法を編み出した。どうしても20分はかかっていた通学が10分以内でできるようになった。

高校は電車通学で、大袈裟でなく毎日、痴漢に遭った。中学生くらいから電車に乗るとオジサンに胸を揉まれるなどしたけれど、高校への通学では同世代にも痴漢がいて呆然とした。年齢の異なる、学生と接触の機会のないひとがしでかすことのように思っていて、欲求のままに見知らぬひとを傷つけるようなことを中高生がするとは思っていなかった。とても混む電車で一度に三四人から触られることもあり逃げるのに苦労した。よく、痴漢でないひとを痴漢と間違えるなどという話があるけれど、私が遭った痴漢は鼻息が尋常でなく、間違いなく痴漢だ。興奮した息を誤魔化そうと鼻で呼吸するのだけど、到底通常の鼻呼吸でなく、細かなハアハアを鼻からするのでコイツだというのは判る。判ってもこうしたことに対しての私はいつも無力で、逃げる、避けるよりほか何もできなかった。

三月ほどのうちに通学することができなくなり、母の状態の悪さもあって、何をどうしたらよいのか考えがまとまらないまま秋には退学した。大勢の生徒の中で何故か私の顔を覚えて親身だった事務の責任者のひとが私の家まで来て手続きをしてくれた。自分の弱さが招いたことと諦めたつもりでいたものの、そのひとに残念だと言われると泣きたくなった。勉強は続けてくださいと言われた。どう返事をしたか憶えていない。
タグ:解決済み
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ニャスビシュのラジビウの城 [日々の暮らしで思うこと]

Wednesday, 6th January 2021

Pさんの家で寝起きして、もうよくなった気がして家へ帰りたい。咳と微熱がまだあり、Pさんは心配だと言い、何も起こらないと思っている私にも不安はあって、Pさん宅に居残る。それでも家へ帰りたいとは強く強く思って、場所なのか、暮らし方なのか、家そのものなのか、他の何かなのか、わからないけれど、何かが待っているようで胸の張り裂けるかの思いがする。帰巣本能だろうか。幼い頃を過ごした辺りを懐かしむけれど、私は疾うに帰る場所、居るべき場所を別に持っていた。

小学校一年生から三年生まで、成績表の通信欄にはいつも「動作が鈍い」と書かれていた。愚図愚図して間に合いそうにないからと、母が手を引いて連れて行ってくれたりもして、この学校へ通っていたときは無遅刻無欠席無早退で、様々な流行り病にいち早く罹っていた保育園児のときからすると大きな進歩なのだけど「動作が鈍い」とは。字面の悪さは言うまでもなく「ドウサガニブイ」という響きがもう致命的な欠陥に聞こえる。知らずに愚図愚図してしまうらしいことや給食を食べるのと走るのが遅いとわかっていたけれど、どうしたら早くできるのかわからない。きちんと畳む、静かに閉じる、大きい声で言うなど明確な解決のない「動作が鈍い」には、いつも続けて「頑張りましょう」とあって、救いがなかった。鈍いの呪い。転校して担任が変わるまでずっと書かれ続けた。

書いていたのは学年主任のベテラン教師と言われる担任で、厳しい指導で信頼を得ているひとだったけれど、一年生の家庭訪問の時、親の前で態度が違い失望した。椅子へ座った彼が私を膝へ乗せて気分が悪かった。普段は呼び捨てするのをちゃん付けで、あからさまな猫撫で声で、乱暴さ横暴さは少しも見せず、インチキだなと思った。その場で父にいつもはこうではないと言い、父は親の前でその子どもを大切に扱うのは礼儀かもしれないと言ったように思う。担任がどういう顔で会話を聞いたかわからない。聞いたなら、気拙かっただろうか。これは多くのひとが立派だとか感心だというひとを必ずしも信用できないと知る初めの経験だったと思う。顔も声も思い出さないけれど、牛がウッシッシー、題が無いのは台無し、選挙に行かないのはキケンなど彼の発した駄洒落は忘れていない。わからないことは多いけれど、6歳でもいろいろ考えることができる、子どもだからと何もわからないというような扱いは理不尽と思い、そういう大人にならないようにしようと思っていた。自宅の畳に寝そべって或いは校庭の隅に植わる百日紅の木のコブへ腰かけて。

私は読んだり考えたりするのが好きで、小学生向けのクイズやなぞなぞは大抵答えられた。読み間違うと交代というような朗読をすると私のあとのひとには順番が回らなかった。父以外の大抵のひとが苦手で、ひと言話すのにいちいち苦心が要り、運動能力や体格は同級生に劣り、忘れ物が少なくなく不器用で、学校生活には苦にせずできること、得意と思えることが必要だった。そうしたものは父と話すことと本を読むことでどうにかなる気でいた。国語の時間に「このとき主人公はどう思ったでしょう」と問われ、答えとなりそうなことを想像して答えると「参考書の模範解答と全く同じでカンニングである」と同級生に咎められた。どう思ったかを考えず、正答を予想した答えで、家では勉強をする習慣がなく、参考書は買ったことも触ったこともなかった。けれどそう言って潔白を主張せず「前もって勉強して覚えたことを答えられないならテストは全て白紙で出さなくてはならない」と理屈を捏ねた。カンニングカンニングと騒いだひとは皆黙り、反論するひとはいなかった。どちらを言ってもよく、どちらにしても生意気だが、理屈を選び、潔白を棄てた。何かと自爆ボタンを押しがちである。考えも無しに。時には考えに考えて。

これをすると母が困ると知っていてわざとせずにはいられず、真っ白な日傘をドブへ投げ入れたり、整えられたシーツを皺くちゃに丸めたりして、また、窓の外の遠くに見える木が夜になると家へ向かって歩いてくるようで目が離せず、暗くなると窓から一点を見続けるなどもあって、母は私をどう扱ってよいか困り果て、知り合いや友人や姉妹や弟の妻に電話で相談することがあった。あなたは二歳でアルファベットを読んで、小さな子どもに詰め込み過ぎと周りから言われて苦しかったなどと、度々責めた。教えないものを勝手に読んだというお叱りなのだけど、カンで読める訳がなく教えられたに決まっており、教えずに読むほうが怖い。後になって、遠回しに賢いと褒めたのかなと思ったりもした。賢くも何ともないけれど。私が乳児のときに雪村いづみに抱っこされたことは嬉しそうに何度か言っていて純粋に自慢の話に聞いたけれど、雪村いづみというひとを知らなかった。調べて、自慢に思うであろうひとのように思い「今はバラ色が好き」という曲を聞いた。詞を谷川俊太郎が書いた曲だ。優しく丁寧に歌っていて人柄のよさを感じ、このひとに抱っこされたことがあるのかと心が和んだ。何も憶えていないけれど。

Pさんの一番古い記憶は保育園のベッドで目覚めたところらしい。ベッドの柵越しに世界を見たところから人生が始まったように聞いた。三島由紀夫は産道を通ったときの記憶があったと聞いた気がするが、映画「ブリキの太鼓」の話だったかもしれない。しかし「ブリキの太鼓」には成長を拒否、乾いた太鼓の音、ヒステリックな叫び声、唾、砂と断片的な記憶しかなく、産道で思い出す理由がわからない。

私の一番古い記憶は入院した母を父と見舞いに行ったときのものだと思う。母がPさんの出産で入院していたときで2歳3か月のことだ。そう長くない筈だけれど何日かぶりに母と会うのが恥ずかしく、尻込みして近づけず父の手を握って離さなかった。それだけ憶えている。Pさんが生まれていたのかどうかわからない。一番古い記憶の中には父と母と私だけがいる。
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流刑地の密度の高い闇 [日々の暮らしで思うこと]

Tuesday, 5th January 2021

Pさんの家で寝起きした。苦しくて苦しくて苦しかったのに、何事もなく目が覚めた。熱は下がったように思うも「体温は何の参考にもならない、あってもなくても直ぐに動き回るのはよくない」とPさんに言われ、LINEで地域のコロナサポートから問われたときだけ体温計を使うことにする。体温計は何年も前に買ったものでいつまで使えるかわからない。また、五十代でCOVID-19に感染して亡くなった国会議員のひとは平熱のときもあったそうで、発熱が何に依るにしてもPさんの言う通りにしておこうと思う。ひとりでどうにかなりますと言える感じがない。死ぬにしてもここなら発見が早いというようなことしか思いつかず、未知の病と持病へ手玉にとられ弱気だ。

昼間、Pさんが犬と犬を散歩に連れ出してくれた。犬が分離不安だと思っていたけれど私がそれで、犬がいないと酷く不安だ。月曜日、まだ自宅に居るときにもPさんが散歩へ連れて行ってくれて、いつもの部屋にひとりでぽつんと待っていて淋しかった。Pさんの家だと孤独感は少し和らぐ。多分、この場所に居る犬のイメージが無いからだろう。買い物や用事を済ませると言って出たPさんは三時間近く帰って来ず、帰る寸前まで何の連絡もなく、ひとり待ちながら、どうなってるの?と勝手に声が出た。Pさんは唐揚げ丼を買って、犬と犬を連れて戻った。唐揚げ丼は油でギトギト且つボリュームがあった。受験日の朝食にかつ丼を出される受験生の心持ちで食べた。美味しかった。夕飯はポトフで有り難かった。

茶犬がPさんの熊のキーホルダーに心奪われ、じっと見つめ続けていて気の毒に思い自宅からウサギの玩具を持って来たけれど、熊がよいらしくウサギには見向きもしない。渡したところで茶犬がするのは激しく噛み、中綿を引き出すなどの残虐な仕打ちと判っており熊は渡せない。

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中学二年生からの友人は成人前後まで十年近く付き合いがあり、私にとっては長く続いた友人だ。浅野温子似の友人は名がサクヤであれば、皆からサクと呼ばれていたが、私はどうしてもそう呼べず、サクヤさんと呼んでいた。もうひとりをその名でクルミ(仮名)さん、与ひょうを熱演したひとをその名でコヤギ(仮名)ちゃんと呼んだ。何故ふたりがさん付けでひとりがちゃん付けなのか、自分でもわからない。三人は互いを呼び捨てし、私をちゃん付けで呼んだ。名前を呼ぶような日常の些細なことがすんなりできず、自分に苛立ったものの、ひねちゃんはそれでいいよと許された。クルミさんとコヤギちゃんは何代もその土地に続く家のひとで、広い敷地に建つ大きな家に暮らしていた。サクヤさんの家は彼女が高校生のときに両親が一軒家を建てた。要は実家がどこにあるかはわかっており、連絡の取りようがあるかもしれないということ。私は探偵でも雇ってもらわないと見つからないので、待っていては途絶えたままになる。思い出だけで充分と思うものの、今、どうしているのかなと思うことはある。

中学三年生のとき、サクヤさんとふたりで神社で話していた。特に用事もなく会ったと思う。鉄棒やブランコに触れ、手が鉄臭くなったとか、あそこの木は雷が落ちて大きな穴が空いたとか、そんなことを言い合って退屈しなかった。母は少しずつ統合失調症の症状が出ており、Pさんは長く学校へ行かずにいた。私は抱えているものを重く感じ、逃げ場の無さに疲れていた。それでどういう訳か、父が自殺したことを打ち明けた。進行中のことより完結したことのほうがよい、という判断はあった気がする。サクヤさんは「何だ、そうだったんだ」と言い、そんなの何でもないじゃんと続けた。あまりにも何も言いたがらないからもっと悪いことがあったかと思ったとも言って、もっと悪いこと?とオウム返しする私に「強盗殺人で刑務所に入っているとか」と答えた。父が死んでしまうより悪いことなどないよと思いながら、この軽い返事は私には途方もなく心地よかった。ずっと口止めされていた父の自殺を初めて打ち明けて気が楽になった。

サクヤさんには歌手になりたいという夢があった。私の親戚の家が五反田かどこかにあったとき、ふたりでそこに泊まって、オーディションを受けに行ったことが二回あったと思う。親戚に泊まるから同行したのだけど、オーディション会場へ入れるのは受験者のみで、一緒にいてと頼まれ私もオーディションを受けた。付き添いが合格してしまったという話は何度か聞いたように思うけれど、私の場合そうした奇跡は起こらず順当に不合格となった。サクヤさんは目鼻立ちがはっきりしていて、簡単に言えば美人で、歌は意外性のある裏声使いで、歌唱力も個性もあって合格してよい感じなのだけど、何次予選かで不合格となり、テレビで放送される本選へ進めなかった。どうも、審査員のレッスンを受けていたり関係者の親類縁者など、コネのあるひとが優先的に出る感じで、何次予選かになって現れるシード権を持つひと、予選に出ずひとっ飛びに本選へ出るひとなどがいた。そのひとたちが優れているなら仕方ないと思えたが、そうではなかったので、実力を試す場所ではなかったのだと思う。

サクヤさんは歌手を諦めたあと、商業高校を出て、小さな会社で製図の仕事に就いた。酷い癖字だったのが、短い間に読みやすい字に変わって見違えた。勤務中、図面から目を上げて窓の外を見ると、その瞬間に奥に見える建物の屋根全部が一遍にずずずずずーっと滑り落ちて笑っちゃったと聞いて私も笑った。そんなことある?と聞かれて、あったんでしょと答えて楽しかった。朝7時前に電話してきて「馬刺しとタコわさだったらどっちが好き」と聞くだけ聞いて続きがないとか、同世代の見た目のよい心から好きなひとと付き合いながら十二歳上の同僚ともずるずる関係を持つなど予測不能で危なっかしい。中学から喫煙し、高校生になると万引きやキセル(電車賃の誤魔化し)を繰り返した。見知らぬ男性とホテルへ行って乱暴されそうになったこともある。泣いて嫌がったら「俺はやめるけど、他の男ならやめない、こんなことは二度とするな」と帰してもらった。馬鹿をすると思いながら、彼女のことが好きだった。中学生のとき、彼女と私は詩のノートを作っていて、お互いに書いたものを見せ合っていた。彼女の書いた詩に「あたしは小さな魔法をかける / だって、小さな魔法使いだから」とあって、何か、たまらなかった。無力感を覚えつつそこへ立ち向かう彼女そのものに見えた。何をしても彼女のどこかに小さな魔法使いがいるという思いは消えなかった。

クルミさんは農業高校を出て、新宿の百貨店に就職した。農業高校からそうした進路があるのは意外だったけれど、裕福な家柄なんかも加味されたかもしれない。十歳くらい上のひとと付き合って「処女を奪われた」とサクヤさん経由で聞いた。被害者かよと思い、奪われたと言ったのかサクヤさんに聞くと一字一句違いなくそう言ったらしかった。クルミらしいよねと言い、サクヤさんは、あれは多分、結婚すると思うよと続けた。その後、クルミさんがどうしたか知らない。コヤギちゃんは前に書いたけれど、学校を出て大手企業に就職した。きっと私とは縁を切りたいのだろうと思い、連絡をしなくなった。

私はアルバイトで入った会社で社員となり働いた。二部上場がどれほどのものかわからないけれど、勤務先にはそれなりの自負があり、入社時には興信所が身元を調べたと聞く。どういう訳か採用となり、仕事に遣り甲斐もあった。一生働ける仕事に就くのは中学生のときから考えていたことでもあって、定年まで頑張りたかった。中学生を過ごしたところを離れ、姓が変わり、具合のよくないときを除けば安穏と暮らしている。思い出されることさえある気はせぬけれど、安否を聞かれれば、私はどうにかなったと答えたい。
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狐の火ともし狐の絵筆狐の手袋 [日々の暮らしで思うこと]

Monday, 4th January 2020

気付くと私鉄と書いてしまうけれど、誰も困らないように思われ、今後も書き続ける気がする。JRでなければ私鉄と言っていてよい気もする。幼い頃、バスで出かけるのが大森で大森の隣の駅が蒲田だった。もしかすると、蒲田へ直接行くバスがあったかもしれない。小学校へ入ってからだった気がするが、ある日、年上の友達何人かと蒲田の縁日へ行くことになって、家へ帰ると母がいなかった。私は何も考えず抽斗の「おかあさんの財布」と呼ばれるものから五百円を取り出して出かけた。バスに乗ったのは確かで電車に乗った憶えがない。運賃をどうしたかも曖昧だ。親の財布から金を盗むくらいなので無賃乗車したかもしれない。小学校へ入ったからと切符を買おうとして背が足りず、通りがかりの大人は小学校へ入ったら買えるようになるなどと度々無責任に言った。もう入っているのに。そんなサイズ感で大人の脇に付いて行けば難なく無賃乗車できたと思う。小学生のひと群れとして誤魔化して乗ったかもしれない。そうして子どもだけでいつもより遠いところ、蒲田の縁日へ行って、楽しかった。五百円で、火薬部分が何色かに色分けされた、多分、虹の七色だったと思うマッチと用途不明な感じの1mくらいの金色の鎖とあともうひとつ何かあった気がするけれど、思い出せない、兎に角要らないものだけ買って、何故か楽しかった。縁日に付き物の屋台の食べ物などは何も買っていない。家へ帰ると父に叱られて、暗くなるまで帰らなかったからだと思ったら、それに加えて黙って遠出したこと、おかあさんの財布から五百円を持ち出したこともいけないらしかった。そう叱られるまで勝手にお金を持ち出したことはなかったけれど、持ち出してはいけないと知っていてしなかった訳でなく、偶々、機会がなくてせずにいて、蒲田行きで叱られて初めていけないことと知った。「おかあさんの財布」とは呼ぶものの、家族の食べ物や使う物を買っていて、みんなのお金が入っていると思っていた。こんなことがあって、小遣いや何かが決まったのかもしれない。初めての小遣いは月曜日から土曜日が三十円で日曜日が五十円だったと思う。大抵のものを好きに買ってよかったけれど、酷く甘い食べ物と毒々しい色の食べ物は買ってはいけないと言われた。甘い物はお腹に虫が湧く、毒々しい色の物は毒だという説明だった。そう教わると、威張って言うことではないが、見張られずとも約束は守った。

かつての友人マキちゃんは女優志望で劇団に入り、三年やって芽が出なかったら家に帰って結婚しろという親との約束を守って夢を諦めた。レギュラー出演の番組があったと聞いて、後年、再放送の刑事ドラマを何話か丹念に見たけれど、一切映っておらず、出演者として名前が表示されることも無かった。レギュラー出演の女性はふたりだけだったのに、撮影完了の飲み会にもうひとりのひとしか呼ばれず辛かったと聞いたときは意地悪な話のように思ったものの、放送されたものを見ると、つくったひとたちからするとエキストラだったのかもしれない。彼女が運転していたというミニパトも何話か見て数秒しか映らなかったので。そうとは知らず、社員食堂の昼食で、そんな有名人とごはんを食べるなんてと言ってしまい、考えようによっては嫌みなのだけど、マキちゃんは大したことないから気にしないでと言い、にっこり笑った。素直に喜んでいたと思う。自分の美しさを利用して金持ちと結婚すると言う計算は好きになれなかったけれど、そういう卑屈でないところは好きだった。

女優というのは看護婦みたいな感じで、もう使わない言葉かもしれない。女優だから顔は傷つけないで、というような台詞は多分前世紀のこと。それでも、俳優とか役者と言い換えながら女性はまだ美しさ若さを求められがちで、男性は見た目が今ひとつでも歳をとっても個性とか雰囲気で認められやすい気がする。何でこのひとはこんなに活躍をと疑問に思うと身長が高い。女性に比べると男性のほうがザルの編みが細かく何かしらで残る機会があるように思う。それから、男女を問わず、誰もが認める美しさでない俳優には安直に実力派、演技派、個性派と言うと思う。実力無い派、演技できない派、個性無い派がいるかのように。そして、真に実力、演技力、個性のあるひとに、実力派、演技派、個性派の看板は要らない。

成人して何年もしない頃、中二の時からの友人と熱海の温泉旅館に泊まりに行ったことがあった。二間続きの離れか何かだったと思う。何歳と踏んだか知らないけれど、その部屋へ泊まる私たちくらいの女性ふたりという客はなかったらしく、仲居さんにも番頭さんにも女将さんにも珍しがられた。友人は目鼻立ちがはっきりしていて、化粧をすると大人っぽかった。それで出した答えが、友人が浅野温子で、私は付き人で身の回りの世話をしながら修業する女優の卵というもの。ひとりで部屋を出たとき、仲居さんと番頭さんに呼び止められ、貴重なお休みをお忍びでお越しいただきと付き人と思い込み礼を言われて、私に浅野さんのサインをと頼んできた。坂道に苦慮する赤いミラ(友人の軽自動車)で来ますか、浅野温子が運転してと問うと、お忍びですし、お客様は運転免許を取れる歳ではないですしと勝手にU18とは何なのというところだけれど、女優の卵に見えるのかとちょっと嬉しかった。何かしら美貌の欠片が微塵でもあるかに受け取って。友人からはちゃん付けで呼ばれ、私はさん付けというのも影響したと思う。中二のときから、そう呼び合っていた。では聞いてみますねと思わせぶりなことを言って部屋へ戻り友人に言うと「浅野温子か、悪くはないな」と彼女もまあまあ喜んだ。宿帳に書いた通りの者なのでとサインをお断りしたけれど、含みのある頷きで、あくまでもね、そうですよねなどと言って、理解を得られたかわからない。こちらとしても、どうしても解かなくてはというような誤解ではなかった。



夕方、前日に続き、Pさんが夕飯を届けてくれた。受け取りに出て、犬のごはんを用意して、もらったごはんを食べ始めて、というところで息苦しさと怠さが耐え難い。呼吸も耳の聞こえも脈もおかしく、パニック発作に違いないと思うものの落ち着かない。肝っ玉が小さいこと、小さいこと。どうにも苦しくてPさんにSOSを出して、犬と犬とお邪魔して居間を占拠した。

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今日一日だけでもすなほにつつましく正しく [日々の暮らしで思うこと]

Sunday, 3rd January 2021

朝、目が覚めると熱は37度を下回った。平熱よりはまだ高いものの怠さと痛みが弱まり、昨晩より随分楽である。空腹感もあって、前夜食べるつもりでいた伊達巻と蒲鉾とおから蓮根を出して、伊達巻は消費期限が2日とあるものを8時間ズルをして食べた。昼まで愚図愚図食べたので12時間のズルかもしれない。期限切れや怪しい食べ物を食べるときに気になるのは過去に見た食中毒のニュースで、どこかの旅館のロビーに飾られていた赤いキノコを部屋に持ち帰り食べたとか、冷蔵庫に何日かあった鶏肉を大丈夫かなと思いながら食べて大丈夫でなかったとか、出来心、油断からしでかしたのを大っぴらに伝えられてしまうことで、さすがにこの頃は配慮されて実名を避け「何処其処の何歳の女性/男性」のように言うけれど、バレない気がしない。期限切れの伊達巻を食べてニュースになっても事実だから仕方ないが、いつだって詰まらせぬに限るけれど、餅すら喉に詰まらせてはならぬ昨今、徹頭徹尾家庭内のこととして収めなくてはと思う。お腹が痛くなりませんように。

腹痛で言うと私は下痢をしやすく、Pさんは便秘がちだ。母が便秘のひとで、下痢も便秘も内臓のはたらきがよくないために起こる、現象として対極に見えて似たようなものと言うひとがいて、遺伝的なものかと思いかけたけれど、下痢も便秘も遺伝しない、生活習慣、食べ物や暮らし方で決まるという話を聞いて、それはそうかとあっさり納得した。私が瀉腹がちなので比べようがないけれど、母は割と重度の便秘だったと思う。どうにもならなくなると母は私にイチジク浣腸を買って来させた。小学校高学年から中学生の頃で、喜んで引き受けるおつかいではなかった。一遍にまとめてということをせず、必要となるたびひとつふたつで、毎回、買わずに済んだらどんなによいかと思うのだけど、正規正当に売られるものを売り値で買うのに何も恥じることはないとも思って、買わずに済ませたい気持ちを意地になって抑えていた。はじめから何も思っていないならよいけれど、嫌だなと思ったなら、何だか嫌だけど頑張って買おうくらいに思えていたら、もう少し気楽だったのではと、後になって思う。何に対しても理屈や道理に適うことをしたいと思ってしまう。これは今も続いている。自分で気付かぬところで緩く温く生きていると思うけれど、何だか判らぬ何か、気の弱さ気の迷いのようなものに負けまいとして、常に正しいと思うことをしたく、考えの及ぶところでは窮屈さがある。これまで自分自身でイチジク浣腸を必要としたことはないけれど、必要になれば通販を頼らず、排便が滞ってそれを促す薬を買うのに何が悪いんですかという顔をして薬局で買うんじゃないかと思う。何の我慢大会だか。

遺伝みたいなものには恐怖があった。母はそうした病気が起こりやすいとされるより随分早く罹った病で身体の少なくない範囲で機能を失っており、そうした身体の病気と母の統合失調症と父の自殺とを受け継ぐのではないかと案じた。Pさんの見た目は母によく似ていて、言動も似ているかしれず、父が自分の考えを押し通すことやあれこれ考える癖はそのまま私にある。遺伝を全く忘れることはできない。幸いにもこれまでのところ、案じたことそのものは起こらずにいる。怠惰な暮らしをしながら一昨年までは生活習慣病の気配もなく、精神的な症状のほかは問題にならなかった。一昨年、急に血圧が高いことになって、一遍に老化した気がするけれど、かと言ってそのために診てもらった医者から血圧を下げる薬は出ておらず、生活習慣を気をつければどうにかなるのかもしれない。Viva 健康。

星占いは信じぬのだけど、生まれ月が人柄に出る感じはしている。1月2月なんかは厳冬なのでぎゅっとしているとか冷え切っているとか、4月なら華やぐとか、5月なら爽やかとか大雑把な分け方で経験則を言えば。母とPさんは6月生まれだから梅雨っぽいと言うと、これありきみたいなことになるけれど、控えめに言って梅雨っぽい。同居人と前の主治医は5月生まれでそれはそれは爽やかさっぱりはっきりくっきりでございましたよ。アルバイト先で意地悪な5月生まれのひとがいて弱気になったものの、さっぱりはっきりくっきり意地悪で、加えて6月生まれの梅雨っぽいひともいて、自説を維持。

このアルバイト先の5月生まれのひとが、「さつき」という名で何人か姉妹で、そのうちのひとりが「やよい」だそうで、渡る世間は鬼ばかりみたいでしょうと言われたけれど、見たことがなくよくわからなかった。入院したとき「さつき」というひとがいて、5月生まれだからと言っていて、もう少しで「やよい」にされるところだったとも言って、マジか卯月でなくと思って、渡る世間は鬼ばかり的なものだったのか、閉鎖病棟ユーモアだったのかよくわからない。彼女はあまり爽やかでもさっぱりはっきりくっきりでもなかった。そこは5月生まれだったのかという辺りから曖昧。残念ながら閉鎖病棟で見聞きしたことは全て疑ってみるのが妥当。

アルバイト先のさつきさんは「思うことをズケズケ言いつつさっぱりしていて面白い」という自己評価のひとで、自分でそう言っていたりするのだけど、気に入らないことがあっても相手の立場、気の強さにより言ったり言わなかったりで必ずズケズケ言う訳ではなかった。ただ、自分でさっぱりしていて面白いと言ってしまうくらいなので、思うことを思うように言う場合もある。あまりじっくり考えないのかなということが時々あった。あまり考えずにいるせいか、私の言うことに度々感心するのだった。自分の中にない表現らしく、詩のようだとか文学的だとか言う。私をおだてて何の得もなく、私はどんな反応もせず、彼女は本心で言っているように見えた。今、何て言ったの、もう一回とメモを取ろうとすらして、私はもう一度言ったりはしなかったけれど、あれが嫌みだったら相当な意地の悪さで、渡る世間は鬼ばかりと言えましょう。

Fさんの年末のTwitterの牛の絵が素敵で、その牛の絵のTシャツがほしいと思い、そのまま伝えて、五分で描いたという返事をもらった。すごいな、五分で描けてしまうのかと感心して済ませてしまったけれど、年が明けてから、牛は年賀状用の牛で、ブログを読んでくださっているという続きのあることに気付いて、お年玉になった。ありがとうございます。うっかり者で失礼いたしました。

夕方から微熱となって、喉の痛みが増した。安静にして栄養をと言って、Pさんが夕飯と干し柿を届けてくれた。干し柿はふたつ食べられる感じでいたけれど、ひとつで充分だった。

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鍵穴だけがぽつんと開いている [日々の暮らしで思うこと]

Saturday, 2nd January 2021

朝、蓮根とおからと胡麻を炒めて煮た。煮汁に年越し蕎麦で残った蕎麦つゆを使った。ひと粒で二度美味しいとはこのこと。鰹のだしがきいてか、どことなく普段とは違う味わい深さに思う。焼いた餅を醤油に浸けて焼いた海苔で巻いた。海苔を焼くときには母を思い出す。「中火の遠火で中表」というのが海苔を焼くときの彼女の教えで、海苔の表と表を内側に合わせて重ね、中火にした火へ離してかざす、そんな意味だ。枚数を焼かず、ストーブに当てて済ませたりで、そのように焼くことは少ないけれど、ストーブで焼いても「中火の遠火で中表」と教えられたことは思い出す。そう焼いた海苔がどう違うものか知らぬまま。

母は私が中学生の頃、統合失調症を発症して、完全に家を出て行くまでは自宅で療養したり入院したりしていた。母がいないと日常生活を取り戻すことが出来て、病院から戻って来てほしくなかった。けれど入院から戻ると落ち着いていて、会話の成り立つこともあり、人柄を見ることもあった。何回目かの入院から戻った母は「入院先であなたの友達のおかあさんに会った、お酒の問題に苦労されていた、約束したから誰とは言えないけれど」と言った。誰とは言えないと約束を守るところは病に操られていない母の言葉に聞こえた。もう母が帰ることがなくなっていたから何年か後、電話した友人の様子が明らかに違って、ああ彼女のおかあさんだったのかと察した。母は誰だか言わなかったけれど、友人の母親は友人へ言っていたのだと思う。強請られると思ったのか、引け目を感じてか、精神病患者の家族と関わりたくなかったのか、何だか解らないけれど、友人は久しぶりというだけでは説明のつかない余所余所しさだった。迷惑と言葉にしなくても私からの連絡は迷惑なのだと判った。後日、彼女の母親がアルコール依存症と知り、私の見当違いではなかったと思い、少ない友人のひとりを失くした。

彼女とは中学二年生の時からの友人で三年で別の組になっても、その後進路が別れても友人だった。中学二年からの友人は他にふたりいて四人で行動することが多かった。電話も四人のうちのひとりと話して四人で会おうとなり、分担して私が彼女へ連絡することになったのだった。彼女は背が高く、運動神経がよく、バレーボール部と演劇部を掛け持ちしていた。文化祭では夕鶴の与ひょうを与ひょう以外の誰にも見えない熱演で観客を惹きつけた。客席から拍手を送りながら、才能溢れる素晴らしいひとが私の友人で誇らしかった。他のふたりは年齢なりの軽はずみなところがあったけれど、彼女は少し大人で、思うことを言わぬ控えめなひとだった。見た目もよく、文化祭での成功もあり、芸能界を目指して不思議なかったけれど、そうした考えがなかったのか、地道に学校へ通い、大手企業に就職した。それからあとのことはわからない。

彼女の父親は私たちが友人となってから亡くなった。台風か何かで大変なときに山へ入って大怪我を負い、意識のない日が何日か続いた。中学生の中年男性への冷酷さだったのか自分の親がそうしたことで死んでは敵わぬとの苛立ちか何だったのか、あのような天気で出かけたのが悪い、絶対に助からない、馬鹿なことで死ぬ馬鹿などとあちこちで語られた。酷いことを言うものだと思ったけれど、何かあれば父を亡くしている私は彼女の相談相手になれるのでは、更には四人のうちふたりが父親を亡くすとはと一瞬のうちに思ってしまい、批判できない。実際に亡くなったとわかったときは、私が諦めたことがよくない結果を招いた気がした。だからと言って謝っても私の気が少し休まるだけで、辛い彼女へ無意味に負担をかけるだけと想像できて、このことは誰にも言わなかった。勝手なことに、電話で余所余所しくされて、荷が軽くなったような解放感があった。

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13時頃、犬と犬と散歩した。建物全体が冷凍庫らしいと聞くだけ聞く冷凍庫ビルディングの脇に山茶花が咲いていて蜜を吸いに来たのかメジロがいた。年末にも見た気がしたけれど飛び立つ後ろ姿で不確かだったが、今回は確かに見た。メジロは姿形と色が絶妙に可愛らしく、見かけると気分がよい。一度、野鳥の会の資料をもらってバードウオッチングは思ったよりお金の要る趣味のように思った。続けて届く資料を送らぬよう頼もうとして、メジロを見かけたりすると決心が鈍るけれど、双眼鏡を買えそうになく観察会に行かれそうもなく郵便代が勿体なく、断るべきだと思う。野鳥は単独で肉眼で薄ぼんやり見守ろう。

冷凍庫ビルディングでは年に一度、求人募集があって、ケーキにイチゴを乗せるだけのお仕事で、二日か三日で終わりで、多分クリスマスケーキとかなのだと思う。日がな一日イチゴを乗せ続けるということをしてみたいし、冷凍庫ビルディングの実情を知りたい気持ちがある。なかなかタイミングが合わず応募できずにいて、昨年末は募集がなかった気がするし、イチゴを乗せるなんてことは機械化されるかも知れず、私は年々寒さに弱くなっており、応募できる日があるのか微妙だ。焼売のグリンピースを乗せるだけのお仕事はどうだろうか、疾うに機械化されているだろうか。と思って、焼売であっても蒸し器の中で乗せる訳がなかった。冷凍庫でのお仕事なら寒さは同じで、小さい分イチゴより難しいに違いない。

14時前、犬の散歩の帰りにPさんに呼ばれて昼食をご馳走になる。正月らしい料理が並び、箸には箸置きが添えられていた。箸置きが枕のように箸頭の下へ置かれていたけれど、そこはスルーした。私の知らぬ流派の置き方かも知れず、前日揉めたとき、午後に元旦と言われて元旦は午前と返したら常にそうやって馬鹿にすると叱られたので。馬鹿にしたのではなく、彼女は周りのひとへ馬鹿だ何だと暴言を吐くので、そうしたひとたちに誤った言葉を使って侮られてはいけないという思いがあるのだけど通じない。私の日頃の行いが悪くて仕方ない。さて、ご馳走は一遍に30品目が摂れそうで栄養がありそうで、且つ、美味しかった。これこそ人間の食べ物、家庭料理だと思った。

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食休みのあと、置き入浴剤のバブを放り込んだ湯へ浸かった。身体のあらゆる痛みが和らぐようで二度と湯船を出られない気がした。頑張って出ようとすると力が入らないほどに緊張が解けた。二十回目の挑戦でどうにか風呂を出て髪を乾かし、二切分が板に残る蒲鉾をもらい、犬と犬と帰宅した。暫く椅子で休んで座ることが辛くなり、横になってあまりにも怠くて身動きが取れず、身体中の痛みが酷く、18時過ぎ、寝転んだまま試しに体温を測ると38.2度だった。んもーと干支の鳴き真似をして、地域のコロナ対策パーソナルサポートとLINEで友だち関係を結んだ。21時前、ハーゲンダッツミニカップのマカデミアナッツを食べると体温が0.3度下がり、もう五個頑張って食べたらと思うも直ぐにふざけている余裕がなくなり、心細くなりながら犬を残して死ねないと珍しく健気に考えた。
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ソルマイテス・テシオエンシス [日々の暮らしで思うこと]

Friday, 1st January 2021

年末に頼んだドッグフードが1月7日以降の発送とあり油断していたら、何のサービスかドッグフード屋さんが大晦日に発送くださり、元日受け取りとなった。年賀状や急を要する荷物で忙しいであろう日本郵便へお手間をおかけして恐縮である。そういう訳で今年はじめて会ったひとは郵便配達のひとであった。一年の計は元旦にありとは、早々に今年をどう暮らすか計画して何かを成し遂げろという意味なのか知れないけれど、元旦にあったことが一年を通じて繰り返し起こるものという思いがどうしてもして、できるだけ何もせず心穏やかに過ごすようにしている。でも、今年は郵便配達のひとに会ってしまったので、郵便を受け取り続ける一年となるかもしれない。くれぐれも現金書留でありますように。

そんなことを思う間に年末ジャンボ宝くじに当たったひともいるのだなと思う。七億円もらったら、ひとはどうするのかしら。拙宅でもたまにジャンボ宝くじを買うことがあって、当選発表まで完全に一等が当たる気でいて、当たったらどうするかをかなり真剣に考える。私は今より交通の便のよいところへ越して現状程度の生活を送りたいと思うのだけど、同居人は鎌倉に家を買いたいと言う。鎌倉に家を買ったら当たったお金がみんななくなるよと言うのだけど、仕事を続けるから生活費は大丈夫らしい。と聞くたび、びっくりする。宝くじなんて働きたくないから買うものじゃないのか。

同居人は暴力団員にならぬよう実家から遠く離れた伯母に預けられ、伯母は生涯働き続けたひとで、同居人に正社員になれと口うるさく言った。ふたつ面接を受けて、どちらも採用となったけれど、もう一社は夜勤があり、そうでないほうを選んだ。そんな具合に選びながら、何億円と手にしても辞めたくない仕事に就いた。自動車部品をつくる会社の品質保証部門で不良品の調査をするのだけど、これは製品の成り立ちの全てを理解しないとできない。複雑さは大きく違うだろうけれど病理解剖に似ているかと思う。不具合として現れたことから、どの辺りに何がありそうか見当をつけ探っていく。クルマの種類の多さから見ても解るように同じように見えて様々異なる製品がある。専門的に学んだひとが図面上理解していても現品を見るとさっぱりということは日常的にあって、社内のものも客先で出たものも概ね彼が調べる。時に、あまりに古過ぎてわかるひとがいないからと他社が省庁へ納めた年代物なども調査やら修理やらしている。そうなるまでに彼はとても努力した。どこがどう悪いか解れば同じ不具合を防ぐことができ、場合によるけれど不具合品そのものも使うことができるよう修正できる。仕事として美しく、唯一無二の誇りは解るので続けたい気持ちは本当なんだろうと思う。出世には全く興味がなく、(給料の算出に使われる)等級だけ上げてくれと威張って言うのだった。そういうところが私にはカッコよく見えた。

同居人は伯母のところへ送られる前には奈良にある宗教団体に預けられてもいて、午前0時から午前3時の睡眠時間以外全て修行に充てられていながら、そこで親しくなったひととそのひとのお金で遊び歩くなどしていた。そのひとは九州の暴力団組長の子で、宅配便で菓子や何かが届くとき、一緒に銀行の帯がついた百万円が送られてきた。月々の小遣いがそれだったらしい。何の修行だか。同居人母はそれで暴力団員になると案じたかと思えば、このことは話していないとのこと。奈良送りはグレた同居人を母が現実的に受け入れられず、狐が憑いたと思おうとしてのことだった。狐が憑くよりグレたほうがよくなくなくない。どっちだ。何にしてもどこかへ行かせるのは同居人には向いていなかった。話せば解るひとなので、母が手っ取り早い安易な方法を選んだように思う。母は母で事情があったかもしれないけれど。

31日の掃除でドライフラワーと化したススキを捨てた。昨年10月1日中秋の名月の日に犬と犬と散歩していて見知らぬひとがくれたススキだ。三本を手に「今、もらってきたものです、あなたに差し上げます」と二本くれた。その晩、月を見上げるつもりのなかった私に。どうしてとは聞かなかったけれど続けて「ぜひ、あなたに」と言われて、もらうべきかなと思った。それでその夜、月を見た。ススキ二本を手に握って。名月かなあ?と思う月だったけれど、ススキがあるとそれらしい感じがした。それからずっと部屋に飾っていて、花が咲いたのか穂が膨らみ、水をあげないうちにカサカサに乾いた。あの夜見た月は思い出せるけれど、ススキをくれたひとの顔が思い出せない。すれ違ってもわからないなと思うと残念だけれど、くれたひとは私が月を見たならよいのかも知れず、ススキを捨てても悪くない気がした。

朝は栗きんとんと伊達巻と焼いた餅を食べ、午後には犬と犬と散歩して、その後にはPさんに理不尽に酷くキレられるという正月で、さてもさても。家出しようかと犬へ言う。

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沓の子槌の子毒きのこ [日々の暮らしで思うこと]

Thursday, 31st December 2020

蕎麦を受け取りに。手袋を買いにのような詩的な響きにならぬかと思ったが全くならぬ。08:35頃、ニーチェにて年越し蕎麦を予約した蕎麦屋へ行く。駐車場へクルマを停め、犬と犬とPさんを残して蕎麦屋へ。前のひとが済んだら入店、店の中では間を開けてふたりがテーブルで待ち、ひとりが蕎麦の受け取りと会計という形で密を避けていた。蕎麦(汁付)2人前@1200、天ぷら(海老2南瓜1茄子1)@1000、計2200円(税込)をPさんの分もまとめて2組受け取り、4400円をPayPayで払った。御年賀と書かれた小箱をもらい、中には缶入りの七味唐辛子(中辛)7gが入っていた。スティックのりPITより直径が大きいものの手のひらサイズで、つまりは持ち歩くことができる。食卓や調味料入れへ並べても全然よいけれど。七味は一会計ひとつで、Pさんがほしがるかもしれない。もらってよいかPさんに聞いて、よいと言うので御年賀の七味唐辛子をもらった。

10時近く、Pさんが生姜や何かを買い忘れたというので直近のショッピングモールへ移動、Pさんが買い物する間に犬と犬と歩く。風は冷たいけれど陽が暖かく、ショッピングモールの外を歩くひとは少なく、散歩に丁度よかった。犬と犬は人工的な建物に囲まれたタイル張りの橋や床を、普段と変わらず毎日通るかの顔で歩く。Pさんに何か要るものはと聞かれて、文明堂のどら焼きをふたつ頼んだ。年末のうちに買ったもので年始をできるだけ長く生き延びる計画で、どら焼きのふたつくらいはあってよい気がした。

10時半頃Pさんが戻り、ついでに足を延ばして、画像持参でOne Buy Oneの催しをしていたチーズタルト屋へ行く。店の外でPさんが「先に行ってきて」と言ったと思い、画像を見せ、ひとつの値段でチーズタルトをふたつもらった。外で待つ犬たちとPさんのところへ戻ると「先に見てきて」と言ったのに勝手に買ったと苦情を言うので、聞き間違えたと言って謝った。見てくるって何だよと思いながら。続けて買いに行ったPさんは戻ってきて、One Buy Oneにならなかったと言うので画像を見せたか問うと見せていない、買う前に画像を見せるよう言わないからと少し怒っている。事前に画像を送った上でこのようなことがあると伝えたのでわかっていると思った、画像にも説明が書かれていると言うと、画像などいちいち見ない説明が足りないと怒り、もういいけどと言う。「いいけど」と許されなくてはならないことなのか。Pさんは期間限定らしい柑橘系を買っていて、念入りなことに二種四個なので、私の基本のチーズタルトを含め、三種をひとつずつ分ける算段だろう。基本のチーズタルトだけを食べたくて買ったのだけど。

帰り道、踏切の向こうが入り組んだ交差点というところがあって、助手席のPさんが「右は大丈夫」と言うので、右は見えるから左を見てと少し強めに言うと「文句ばかり、否定してばかり」と不満を言うのだけど、そっくりそのままお返ししたいし、運転する私越しに右側を見ようとしてPさんが前のめりで左側が全く見えず、踏切と道路の横断があれば「左を見て」と言うよりないと思う。実際のところ、分担して見る必要はなく、視界を妨げないでくれれば一番よい。こういう些末なことはその場で忘れていきたいけれど、何が悪かったのか避ける術はあったのか考える。自分のなかでは最善を尽くした気でいて、降りかかる火の粉で常に火傷を負っているように思ってしまう。百通りの逃げ道を考えようとして二通りも思いつかない。

国道へ出ると南側にあまり高くない、多分五階建てくらいの建物があり、壁に لا إله إلا الله محمد رسول الله と思しきことが書かれ、下に「アッラーのほかに神はなくムハンマドはその使徒である」と添えられている。ここを通ると何故か口に出して「アッラーのほかに」を最後まで読み上げてしまう。何かを意図してではなく、そうせずには済まない抑えられない何かがあって、それが何なのかわからない。声に出して読みたい日本語に入っているのだろうか。イスラム教徒に連れ去られたとき、シャハーダを唱えると殺されないことがあると何かで見たが、アラビア語で言わねばならず、日本語で「アッラーのほかに」を言っても概ね無意味だ。ただ私の気が済むより何もない。

11時過ぎ、ニーチェにて帰宅。直ぐに犬と犬と毛布を抱えPさんの家へ行き、11時半頃、Pさんが買ってくれていた焼鳥弁当を食べる。黄色い卵的なものが苦手だったけれど全て残さず食べた。

12時半頃、Pさんのクルマでコインランドリーへ行って毛布二枚を洗濯乾燥機へ入れ、1300円を現金で投入した。終わるまで一時間かかるのでマツモトキヨシへ行った。クリネックスティシュとエリエールのトイレットペーパーと泡ハンドソープキレイキレイとユニ・チャームのデオシートレギュラーサイズ超吸収116枚+おまけ4枚入を割引葉書を使って買い、2579円をauPayで払った。美味しい蕎麦と美味しい伊達巻があるのに山葵がなかったことを思い出し、割高スーパーマーケットへ行き、ハウス特選生わさび、S&B本生本わさび、同本生きざみわさびで五分悩み、S&B本生きざみわさび43g税込149円を買い、auウォレットで払った。13時半頃、コインランドリーへ戻り、毛布を回収した。ふかふかで気持ちよい。洗濯乾燥機の扉にはペット用品の使用不可とあり、保健所の指導によりと説明されていた。毛布には犬と犬と私で包まったりすることもあるけれど、主に使うのは私なので多分問題ない。私は確か誰にも飼われていない。14時頃、Pさんの家へ戻り、持参の入浴剤バブを入れた湯へ浸かり、長葱を一本もらい、分けた三種のチーズタルトを持って、犬と犬と帰宅した。

一時間ほど、軽く、しないよりましくらいの掃除をした。やるからには成果をみたいな思いで結局手が出ないということがあって、一分でも二分でも、できることなら十分くらい週に何回か掃除したらよいのではと思う。今から2021年の大掃除を始めるつもりで。

18時過ぎ、年越し蕎麦をつくって食べた。一人前ずつ茹でるよう説明書きにあったが蕎麦が細くやわらか繊細の極みで分けることができない。詮無く湯を大量に沸かした鍋で二人前を茹でた。素人がインチキをしたのに格別の美味しさで有り難かった。蕎麦湯も美味しく、五分悩んで選んだチューブ入りきざみわさびも悪くなかった。2020年の終わりにMUSEの2007年のWembley StadiumのLive動画をYouTubeで見た。太平楽。

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回転窯式ポルトランドセメント [日々の暮らしで思うこと]

Wednesday, 30th December 2020

朝、Pさんから平塚か茅ケ崎へ行けば私の好きな伊達巻と栗きんとんを買えるかもしれないと連絡があった。あれば嬉しいけれどもう諦めていて、別の年ならともかく、わざわざそのために出かけて買ってほしいものでもない。けれど、行かれるか行かれないか、とりあえず行ってみるとPさんはクルマで出かけて行った。アクセルしかないひとだ。一緒にと言われなかっただけ楽ながら、私のために人混みへ行くという認識で出かけた気がするので荷が重い。家でのんびりしてくれて構わないのにと思う。

私は私で犬と犬を連れ、花を買いに隣町の農産物直売所へ出かけた。正月仕様か普段3輪で400円のバラにソリダコっぽいものをひとつ添えて1500円などで売って高過ぎる。実付き南天が800円で正月らしい感じがあるものの上手く飾る自信がない。というか何かしら花がほしかった。菊菊していないように思う菊を2束@400税込800円と卵13個入税込350円と茨城県産蓮根税込190円を買い、1340円をauウォレットで払った。卵はネットに入るだけ詰められていて開いて数えるまで、いくつ入っているかわからない。冷蔵庫には20個の卵ポケットがあって何の心配もない。

かつての勤務先でアルバイトから社員となったとき、歓迎会のような飲み会が開かれた。私はそうした宴席も酒も苦手で早々に逃げ出した。飲み屋から駅までの道を歩くときオオカミが二足歩行しているようなワイルドなひとに送ってもらった。これを見かけたひとが上司に報告して、翌日上司に呼び出され、オオカミとふたりで帰るなんて何をされるか分からない、無事でよかった、くれぐれもオオカミには気を許さぬことと厳重に注意された。遠い昔、私も小娘扱いされたのだった。オオカミはちょっと古株の同僚で落ち着いて見え、何が起こるものでもないと思っていた。後になって、私より若い女性がオオカミと恋をして、オオカミには妻がいたので辛くなり退社したと聞いたけれど、そう聞いても私にはただの同僚だった。それでまあまあ話をしたのだけど、オオカミが祖母の墓に赤いバラを供えて叱られたという話があって、私はふうんと聞いて、それで?と待ったけど続きはなかった。あれはどういう話だったのかと思い、分別のありそうなひとへ聞くと墓前にバラは供えない況してや赤いバラはと教えてくれた。更にはオオカミのロマンティストアピールであろうとも言った。そーなんだー。物を知らぬので偏見が少ないというと聞こえがよいけれど、大抵のことをそういうものかと思ってしまい、本当は驚いたり怒ったり笑ったりするものだと後で解る。ということが今もある。オオカミは私がまだ勤務しているときに私と同期入社のヘイコラが少し出世して、そんな評価をする会社に嫌気がさしたと言って退社した。確かにオオカミのほうがヘイコラの百倍は仕事ができた。でも、私が思うのは、頭を下げるのも才能のうちかもしれないということ。才能が言い過ぎなら努力と言い換える。私は下げたくない頭は下げないし、愛想笑いもしないし、挨拶もされたら返すくらいで生きている。それに比べヘイコラは本業実務についてはさっぱりなのに揉み手だけは誰より巧い。今では取締役で、ちょっと考え難い人事で、ヘイコラした甲斐があった。こういう結果があるとわかっても、私はやはり下げたくない頭は下げられない。オオカミは離婚して住む場所を失くしたとか、パチンコで食いつないでいるとか、借金で首が回らないなどとあまりよくない話だけ聞く。パラレルワールドにヘイコラが挫折してオオカミが出世する世界があればと思う。本当の実力主義。だとすると、同居人が一番出世してしまうけれど。

日産車とまとめて、WiLL Cyphaの任意保険を日産経由で加入していたけれど、日産車は手放しており、販売店は遠く、更新の手続きに手間がかかった。それでクルマを換えると同時に日産経由をやめて、カローラ経由に変更した。何もかも持っていくな、カローラ。と思いながらも3kmの近さは楽で、プリンスは45km離れていて密使を立てるなどせねばならず、気に入らなくとも便利さは侮れない。そういう訳でWiLL Cypha任意保険解約の書類を郵便ポストへ投函した。社長と香川照之の宣伝が苦手でトヨタを好きになれず、あれを見ると嫌な気持ちにしかならない。宣伝として成立しているのだろうか。私のように宣伝を嫌いながら詮無くクルマを買った者のいることを社長と香川照之に伝えたい。送られ続ける不動産屋の要らぬ手紙が郵送されたものだったので、受取拒否と書いて署名した紙を貼付、これも一緒にポストへ入れた。そんな具合に受取拒否と社長と香川照之に伝えたい。送り返すものがないけれど。

昼にはPさんが私の好きな伊達巻と栗きんとんを買って帰ってきた。同じ店の南瓜プリンもあって、仕出し屋の弁当もあって、刑の執行はいつですかという気持ち。ご馳走が多くて畏れ多い。高額な買い物をしながら処理を誤り駐車場代が無駄にかかったとも聞いて落ち着かない。かと言って何ができるでなく、2800円と言われて3000円を出して、お釣りはいりませんと言うのがせいぜい。

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